居丈高な言い方に白竿組の巳之吉らはハッと顔色を変えている。
「これら若い衆とは些《いささ》か顔馴染《かおなじみ》ゆえ、普請場を一度見て参ろうと存ずるが」
典膳はおだやかに答えた。
「それは存じておる。併《しか》し貴公を普請場へ入らせるわけには参らぬわ」
「……何故《なにゆえ》?」
「御家老の仰せじゃ」
別の一人は更に典膳を見下《みくだ》すようにして、
「貴公、噂によれば以前より堀部安兵衛を存じておるそうじゃの。あれはもと赤穂藩士——まさかとは思うが、一応気がかりの人物じゃ。それと識《し》り合っておっては貴公に異心なきことの見える迄《まで》、我らの方でも要慎《ようじん》をいたすは当然。ま、今は出すぎた事などいたさずと、部屋住みで三度三度のめしにありついておる方が無難ではないか?——のう?」
ありあり嘲蔑《ちようべつ》の色が眼《め》に漾《ただよ》っている。
あきらかにいやがらせだ。堀部安兵衛との旧交を気にするぐらいなら、もっと本気で上野介の安全をはかり、大石の東下《あずまくだ》りにも監視の眼を注ぐべきだろう。大石は鎌倉雪ノ下に来て、意外に吉良方に警戒心のないのを知り、堂々と江戸日本橋石町の小山屋弥兵衛|方《かた》裏手控え屋に乗込んだという。しかもなお上杉の刺客に備えて常に身辺の護衛をおこたってはいないのである。吉良の家来共とは雲泥《うんでい》の相違だ。ということは、繰返すようだが、元来、吉良の家来たちはまさか将軍家のお膝もとで徒党を組んだ暴挙などおこせるものではないと思っている。あくまで典膳は千坂兵部におもねって吉良家の扶持にありつきに来た——そう見ているのだ。
「な、な、何をぼやぼやしてやがる」
不意に、長兵衛が付近《あたり》の乾分《こぶん》共を怒鳴りつけた。
「もうとっくに休憩の時間は済んでる筈《はず》だ。あと十日っきりねえ仕事だぜ。ぼやぼやしねえで、早く普請場へ行きやあがれ!」
典膳の胸中を察して、吉良の侍への憤懣《ふんまん》をそんな仕方で吐き出したかったのだろう。或《ある》いは典膳が虐《しいた》げられるのを身内の者には見せたくなかったのだろう。
長兵衛の一喝《いつかつ》で、若い者共はおどろいて一斉《いつせい》に普請場へ去ってゆく。吉良の侍にもこの一喝は出鼻を挫《くじ》いたようだった。
「石原様」
すかさず長兵衛は呼びかけた。
先刻《さつき》典膳が家老小林平八郎と会った時に、側近にいて典膳を蔑《さげす》んだ一人である。
「ごぞんじかは存じませんが、こちらの丹下様は、以前わっち共の普請場で杖突《つえつ》きをして頂いたことのあるお人でございやしてね。申してみりゃあ昔っから普請の進捗《しんちよく》ぶりが一目でお分りなさるお方でござんす。若え者共も、先《せん》……おっと、丹下様が見回って下さるとなりゃあ一段と精を出し、仕事のはかどりも進みましょう、どうぞ、普請のはかどりを進めるためにも丹下様の出入りをおゆるしなすっちゃあ頂けませんかね?」
「ならぬ」
石原と呼ばれた侍は突っぱねるように言って、
「丹下を普請場に入れるなとは御家老よりのお申しつけ。異議があるなら、側役《そばやく》を通じてその方よりお直《じき》に願い出るがよいわ」
そう言って、
「さ、丹下。庭をうろつくほど暇を持て余しておる身なら、我らの碁の相手でも許されるよう、身共より御家老に願いあげてくれる。ついて参れ」
袖《そで》をひるがえして背を向けると、目配せで朋輩を促した。にやりと銘々笑いあったのが、
「なるほど、貴公の碁の相手なら暇はいくらあっても足らん。はっはっ……よい男に知己を得たわ。のう丹下」
それからガラリと語調を変えると、
「何をぐずぐずいたしておる——早く参らぬか」
典膳は目顔で静かに長兵衛をうながした。
「そちはもう仕事場へ行くがよい。心配せずとも、わたしなれば大丈夫——。よいか、良い仕事をしてくれいよ」
家来たちの侮蔑などはてんで問題にしていない表情だった。
「へい」
長兵衛は顔中くしゃくしゃにして、
「じゃ先生。い、いずれ——」
面をそむけ、にげるように走り去る。
「……お待たせいたし申した」
典膳は家来たちの方へ戻って、それから屋内へ、連れ込まれた。
石原弥右衛門というのは隠居上野介の中小姓の一人だが、碁が何よりも好きで、ただ『待った』を連発し、徒《いたず》らに長考し、形勢非となると屡々《しばしば》相手に悪態をつくので、今では唯一人碁を囲もうという者がない。
そういう侍だったから、根は気の小さい小悪党なのだろうか。小林平八郎に願い出ると、あらためて典膳を家臣一同に自ら引合わせてまわった。
これが各々方も姓は承わっておられよう、上杉様御家来長尾竜之進どのに腕を斬落《きりおと》された丹下典膳どのにござる。これが元御旗本丹下典膳にござる、千坂兵部どの生前より目をかけられたる誼《よし》みにて、このたび、当家の食客に相成り申した——一々各座敷をそう言って回ったのである。ともに侮蔑の視線を浴びせて楽しもう、そんな意図もあったのだろう。
典膳は、冷静に一人一人を見きわめた。中小姓・清水一学、同じく大須賀次郎右衛門、祐筆・鈴木元右衛門、足軽小頭・大河内《おおこうち》六左衛門……
或る屋敷では、上野介の子息左兵衛佐の用人宮石竹左衛門以下、数人の雑談する中で一度に視線を浴びたこともある。彼|等《ら》の中には、石原|如《ごと》き凡愚の家来ばかりとは限らず、典膳を信頼の目で熟視する者もあった。そんな時わずかに典膳の面《かお》は希望に輝いたが——所詮《しよせん》、武辺に於《おい》て一人の堀部安兵衛に対抗し得る者は遂《つい》に見当らなかった——
付け人として吉良上野介をまもる為には、今は典膳みずから堀部安兵衛を斬っておかねばならぬ——
典膳を信頼の目で見た者に新貝弥七郎というのがあった。
上杉家から左兵衛に付けられた中小姓で、まだ十九歳の若侍だったが、赤穂浪士の討入り当夜には獅子《しし》奮迅の応戦をし、新貝の死骸《しがい》の腹から槍《やり》の穂先が出たといわれる。巷説《こうせつ》などでは堀部安兵衛の手にかかって果てた一人である。
また同じく上杉から、上野介の奥方三姫に付けられて吉良へ来た中小姓の山吉新八郎も典膳にはひそかに私淑の意を披瀝《ひれき》した。これも討入り当夜、上野介父子を護《まも》ろうと義士と斬結《きりむす》んで重傷を負い一日後に死亡している。
囲碁|気狂《きちが》いの石原弥右衛門などは、当夜、
「南長屋ノ壁ヲ切抜キ、相老町へ逐電| 仕 《つかまつ》リ| 候《そうろう》」
小林平八郎と同じく上野介の家老だった斎藤宮内、左右田孫兵衛、岩瀬|舎人《とねり》の三重役などは、当夜何か騒々しいので扉《とびら》を明けて覗《のぞ》いたところ透《すか》さず義士にカスリ疵《きず》を負わされたので、
「依《よ》ツテ、屋内ニ相控エ、其ノ後マカリ出候エバ、上野介ドノハ討タレ左兵衛様ハ手傷ヲ負ワレ申シ候」
などと、ぬけぬけ口上している。家老たる身が、主人の討たれる迄《まで》「相控え申す」ような面々だった。当夜即死した吉良方の十六人のうち、上野介の家来は小林平八郎以下わずかに四人、あと総《すべ》て上杉より付けられた中小姓、役人である。義士の乱入に外へとび出し、あっという間に斬られた小林平八郎などは、他の家老にくらべればまだまだましな方である。
——そんな吉良上野介の側近に蔑視《べつし》され、しかも付け人となった以上はあくまで吉良の身を護らねばならなかった典膳の胸中——暗澹《あんたん》たる懐《おも》いは、蓋《けだ》し察するに余りがあった。
それでも若い弥七郎や山吉新八郎を見出《みいだ》した時にはホッとしたろう。
典膳は食客である。本来なら旦那《だんな》たる左兵衛や隠居上野介には目通りも許されぬが、そんな典膳を直言して上野介に対面させたのも右の小姓二人だった。
——或《あ》る日。白竿長兵衛らの急普請で隠居部屋のつづきに茶室の完成した時であった。
上野介はこの数寄屋《すきや》造りの茶座敷を非常に気にしていて、それが見事に早く出来上ったので頗《すこぶ》る機嫌《きげん》の良い折を見はからい、典膳の目通りを願い出たのである。亡き千坂兵部が、特に推挙していた武士であると強調するのを二人は忘れなかったが、併《あわ》せて、茶の道にも嗜《たしな》みある人物だと言い添えた。
ようやく、それで上野介は会う気になった。
上野介は若い頃《ころ》にはさぞ美男子だったろうと思える老人である。肌《はだ》が白く、つやつやとして、一見、立居振舞いも優雅であり、赤穂浪士の復讐《ふくしゆう》計画など歯牙《しが》にもかけぬ頑迷《がんめい》な老人とは見えない。
典膳が次の間に通されたとき、上野介は座敷|隅《すみ》の茶釜《ちやがま》のわきに、ちょこんと坐って、典膳へ背を見せて茶をたてていた。
「申上げまする。先程|言《ごん》| 上《じよう》| 仕《つかまつ》りましたる丹下典膳、これへ推参いたさせました。何卒《なにとぞ》、御引見をたまわりまするように」
「との。丹下典膳にござりまする」
新貝と山吉が敷居|際《ぎわ》から手を仕えて上野介の背姿へ目を注いだ。両人の少し後方に典膳は端坐してじいっと老人の頸《くび》すじから背を見入る。
上野介は何とも言わない。茶室と次の間との境の襖《ふすま》影に人の気配のするのは、上野介お気に入りの小姓でも控えているのだろう。
典膳からは襖にさえぎられて、その者の容子は見えなかった。
「…………」
しばらく、さやさやと茶筅《ちやせん》で茶碗《ちやわん》を掻《か》く微《かす》かな音が上野介の膝許《ひざもと》でした。そのわきの風炉《ふろ》ではシンシンと松風が鳴っている。
「舟松」
茶を点《た》てると隠居はお気に入りの小姓を呼んだ。
「は?」
「客人に一服、これを」
艶《つや》のある良く透る声だ。
「畏《かしこま》ってござりまする」
襖のかげから小姓は膝行《しつこう》して上野介の点てた茶を受取って、目七分に捧《ささ》げ、するすると敷居際まで来ると、
「御免」
山吉、新貝のふたりに断りながら典膳の前まで来て、ぴたりと坐った。
「粗茶にござります」
女にほしいような濃い睫毛《まつげ》をした若衆である。挙措も作法にかなっていた。
「頂戴《ちようだい》つかまつる」
典膳は誰《だれ》にともなく一礼して、片手で茶碗を把《と》り上げる。奥高麗《おくごうらい》出来の、地肌の釉色《ゆうしよく》の好い茶碗だ。
「その方、兵部とは古い知己かな」
喫《きつ》しおわると上野介が訊《き》いた。自前で、これも小服を喫している。相変らず顔は向けない。
「古いとは申し兼ねますが——」
「権兵衛の娘はその後どうしておるの?」
「…………」
「その方、あれの婿《むこ》であったそうじゃが……今、米沢かな」
「千春を、ごぞんじでござりますか?」
典膳には意外な上野介のことばだ。
「知るも何も、上杉であれは評判の美形であったわ」
上野介はつまらなそうに言ったが、その声はよく透った。
たしかに、千春の父長尾権兵衛は上杉家の家老であり、生前は江戸藩邸にあって千坂兵部の上位にいた。上野介の正室が先代米沢藩主上杉綱勝の妹で、現当主、上杉綱憲は上野介の長男であってみれば、その上野介が千春を知っていて不思議はないわけである。
多分は、典膳が隻腕《せきわん》になった経緯《いきさつ》もこの老人は知っているのかも知れない。どの程度、それが真相をきわめたものかによって、典膳への上野介の扱いぶりも異ってくるわけである。
そんな目で見ると、ことさら背を向けつづける様子までが、何か、意味あり気であった。
「その方がことは」
上野介の方から言った。
「兵部にいろいろ聞かされておったがの。武辺の立つの何のという無骨者は、一切、身は嫌《きら》いじゃ。何ぞというと直ぐ、刀にかけてとほざく。……浅野内匠の粗忽《そこつ》と言い、もうもう血の気の多い手合いは真っ平。……いま思い出しても、いまいましゅうて、ぞっとする」
「—————」
「身はの。世間|輩《ばら》が申すように強欲者ではない。考えてもみよ、吉良は高家筆頭——高禄《こうろく》でも第一の家柄《いえがら》じゃ。上杉十五万石の当主は身が悴《せがれ》。いくらでも、金が欲しくば引き出せる。それを証拠に、先年、鍛冶橋のあの屋敷を造営いたす時には、何万両という金が上杉家から出されておるわ。何をくるしんで、端金《はしたがね》にすぎぬ賄賂《わいろ》なぞをむさぼる要があろう。——にも拘《かかわ》らず、浅野内匠が賄賂を呉《く》れぬで身が腹癒《はらい》せのいやがらせをした……そう世間ではもっぱらの噂《うわさ》じゃそうな……何の、赤穂家こそ内匠頭が吝嗇《けち》をかくそうための流言じゃ」
「—————」
「ま、かようなことは、今更、身が口から言わいでもの、お上《かみ》をはじめ天下の諸侯、ことごとく知る者は知っておる」
ズッ、と音たてておのが手の筒茶碗のを吸いおわった。
「お詞《ことば》を返すようでござるが」
典膳は機嫌を損ねぬよう、おだやかな口調で、
「事はもはや左様な理否を論ずる段階をすぎておりましょう。落度は内匠頭どのにあったとせよ、主君を辱《はずか》しめられ、お家は断絶——臣たる者が、これを安閑と見ておられますか、どうか?……この点、立場を代えてお考えになったことはござりませぬか……?」
「きいたようなことを申すの」
上野介は落着いている。
「そちの口うらで想像いたすと、あたかも浅野の遺臣どもが、身を主君の仇と狙《ねろ》うておるようじゃ。……まあ、それもよいがの」
「狙わぬとどうしてお思いなされますか」
「どうして?」
はじめて横顔を向けた。
「——その方、長尾のむすめが婿であったというに、吉良の家筋も知らぬか」
「—————」
「身の妻《さい》は上杉、悴は今の当主、長女|鶴《つる》は、その上杉の養女分として薩摩《さつま》大守・島津|綱貴《つなたか》が夫人じゃ。次女|あぐり《ヽヽヽ》もの、同じく津軽の大名が分家に嫁ぎ、また悴弾正大弼綱憲の夫人菊姫は、紀伊大納言光貞どのが息女じゃ。すなわち身は、御三家の舅《しゆうと》であり、また島津の岳父《しゆうと》であり、上杉には実父——。たかだか五万石の赤穂が浪人ごときに、指ひとつささせる身分ではないでの。まこと身を仇と狙いおるなら、上杉はおろか、紀州、島津とて黙って看過はしておるまい。それぐらいのことは、赤穂浪人どもとて知らぬわけはなし、ま、虚勢を張るなれば兎《と》も角《かく》も、——本気で、誰が身を討てようぞ」
「お詞を返すようながら」
再び典膳は言った。
「君|辱《はずか》しめらるれば臣死すとか——。是非善悪を超越いたした丈夫《もののふ》の五十人や百人は、赤穂浪士の中には必ずおりましょう。それらが死を覚悟いたして只管《ひたすら》亡君の恨《うら》みをはらさんと、事を構えますなれば、たとえ紀伊、薩摩はおろか、天下ことごとくがこれを掣肘《せいちゆう》いたそうとも」
「まるでそち自身が赤穂の浪士か何ぞのようじゃ。——もうよい。ふン、似た者同志とはよう言うた。そちの申すこと、亡《な》き兵部とそっくりじゃの」
言うと、もう典膳には目もくれず、
「舟松」
先程の美小姓を呼んで、
「あのような者には勿体《もつたい》ない、早う、茶碗を取上げなされ」
さすがに新貝弥七郎と山吉の両人はハッと顔をあげたが、すぐ、つらそうにうなだれた。気の毒で典膳を見ていられなかったのだろう。
典膳は併《しか》し、
「かたじけなく頂戴|仕《つかまつ》った」
小姓へ礼を言った。すべては、此処《ここ》へ来る時から覚悟の上のことだった。さればこそ千坂兵部が遺書してまで典膳を頼み、典膳また、おのれを知る人のために死ぬ覚悟で、この吉良へ来たのではなかったのか。……
典膳が吉良家で『招かれざる客』の扱いを受けているとは、赤穂浪士たちは夢にも知らない。
「堀部、貴公の申すとおりの人物なら、我らにとって一大事じゃ。何とか、今のうちに手をうっておくがよくはなかろうか?」
言ったのは剃髪《ていはつ》して坊主《ぼうず》頭になり、僧衣まで纏《まと》うた鈴田重八。いつぞやの晩、千春と典膳が七面社を出たところで、すれ違って会釈《えしやく》をした僧侶《そうりよ》である。
「しかし、本当にその典膳と申す者。吉良の付け人に相成っておろうか?」
毛利小平太が半信半疑で訊いた。
「それは間違いない、拙者《せつしや》——いや愚僧、たしかにこの目で典膳の上杉藩邸へ入るを見届け申してござる。上杉へ赴かば、もはや九分通り付け人になると見て間違いなしとは、堀部、貴公のことばであったな?」
「いかにも言った——」
腕を組み、憮然《ぶぜん》と安兵衛はつぶやく。
「しかし堀部どの」
こんどは木村岡右衛門が顔を向けた。
「千坂兵部|存生《ぞんしよう》中なればともかく、兵部の亡き現在、お手前の申されるほど器量人の典膳なればまさか、我らの苦に、武士の情誼《じようぎ》を尽くさぬ仁とは思え申さんが」
「さよう、それがしも木村どのと同意見にござる。安兵衛どのが、さほど迄《まで》に惚《ほ》れ込まれた武人なれば、よもや——」
「それは分らん」
中村清右衛門がさえぎった。一同の中では播州|訛《なま》りの一番つよい浪士である。万事に用心深く、時には苛察《かさつ》にすぎる人物で、堀部安兵衛のこの本所林町五丁目——紀伊国屋|店《だな》の道場へ寄食する同志の中では、余り皆に好かれていない。
その清右衛門が、重厚ぶった口調で、
「堀部どのが昵懇《じつこん》いたされておったというは既に数年前のよし、今|以《もつ》て一流中の人物なりと言わんも、時の勢いには逆らいかねるが人情——浪々のくるしさから、つい、権門に媚《こ》びぬとは、限らぬ」
「これは異なことを申される。凡庸《ぼんよう》の者なれば知らず、堀部どのが見込まれて申されるに」
「さあその堀部どのさえ、分らぬと腕をこまぬいておるではないか。身共が軽々に申しておるのではないぞ」
「—————」
「また、扶持を失い、家族と別れての浪人暮しの生計《たつき》——その苦しさは、お互い、身を以て味わされておるでの。われらのように亡君の恨みをはらさん大義の為なれば知らず、ただの浪人者が、いかい武芸の立つ身とて……のう、堀部どの一人へ情誼をつくせとは、望む方が無理ではあるまいか」
「では、まさしく付け人になったと貴公は見られるか?」
「何もそう気負立つことはあるまい。拙者はただ、物の道理を申しておるまでよ」
安兵衛を囲んで協議していたのはいずれも剣道指南と看板をかかげた堀部宅に身を寄せる面々なので、他の同志のように商人や医者の風態は似合わず、みずからも腕に覚えはあると日頃《ひごろ》言っている連中である。
中村清右衛門のように苛察すぎる人間は別だが、概して安兵衛には夙《つと》に私淑し、その見るところを疑わない。
堀部安兵衛ほどの者が一目おく相手なら、丹下は余程の剣客に相違ない、と彼|等《ら》は口々に言い、討入り当夜に無用の怪我人《けがにん》を同志の中に出すくらいなら、此の際、われらの手で斬《き》るべきだと鈴田重八などは極論した。
「いかに鬼神とて我らが忠誠の前に何程の事やある。のう堀部、貴公が手をくだし難《にく》いなら、我ら数人がかりで処置いたしてもよい」
「さよう、鈴田どのの申されるとおり。いかに武辺の立つ相手なりとも我ら心を一にして打ち懸れば、よも仕損じは致すまい」
「おぬしはどうじゃ?」
「むろん同道いたす」
「おぬしは?」
「堀部さんが行けと言われるなら、むろん」
中村清右衛門を除いて、毛利小平太、中田利平次、横川勘平、小山田庄左衛門、ついには最年長者の木村岡右衛門までが時を藉《か》さず典膳を斬るべしとの意見に同意した。
器量もあり、武芸も立つ典膳が付け人になっているのでは、どんなことで上野介の身柄《みがら》を上杉藩邸へ移さぬとも限らない、討入り当夜の典膳の抗戦より、その方が怖《おそ》ろしいというのが坊主に変装した鈴田重八の見解なのである。言われてみればその通りである。
「いつ斬るのじゃ?」
中村清右衛門が重厚ぶって訊いた。自分を除外されたのが肚に据《す》えかねるか、鋭い目を重八に注ぐ。内心では堀部安兵衛についで我こそ一刀流免許の腕前と自負しているので、この中村を除外するとは笑止なり——そんな皮肉もこめた眼である。
重八は返辞をしない。「——堀部、貴公の意見をきかせい」
と言った。
一同も安兵衛を見た。横川勘平はこの時三十六歳、横川祐悦なる浪人の妾腹《しようふく》の子で、歩行《かち》で五両三人扶持の小身者だったが、兇変《きようへん》の時は城下に近い塩硝蔵の番人を勤めていたのが、直ちに赤穂へ馳《は》せつけ、籠城《ろうじよう》の徒に加わろうとして慰撫《いぶ》せられて一たんは帰宅したが、城明渡しと聞くと髪冠を衝《つ》いて城中に入り、「切腹してお目にかけよう」と疾呼して、内蔵助を感嘆させ遂《つい》に同盟に加えられた血気の志士である。この十五年七月に安兵衛方へ門弟として居候《いそうろう》してから横井勘兵衛などと変称して、敵情偵察に力をつくした。木村岡右衛門は、安兵衛と同じく旧《もと》は馬回り役をつとめて百五十石を受け、石田左膳と変名していた。毛利小平太は水原武右衛門と名乗り道場の師範代を自認していた。鈴田重八は物頭役で百六十石、永く国詰の身だったから江戸で顔を知られぬのを幸便に托鉢《たくはつ》して主に上杉家の周辺を偵察《ていさつ》していたのである。
「何故《なにゆえ》黙っておられる?」
いつまでも安兵衛が腕組した瞑目《めいもく》をとかないので毛利小平太が一|膝《ひざ》詰めた。
「各々の申されるのも道理だが」
ややあって安兵衛は眼を開いた。淋《さび》しく笑うと、
「千坂兵部が死後を托《たく》するほどの相手。この堀部が挑んでも、武運我にあると見て、互角。……各々《おのおの》を軽視するのではないが、よし、各々の手で討ちとめたと致したところで、いま典膳を手にかけては却《かえ》って吉良方に要らざる警戒心をおこさせよう。——斬るなれば」
「し、しかし堀部どの。一刻を猶予《ゆうよ》いたして若《も》し、上野介が身柄を上杉へ移されるようなことあっては」
「それは分る。わたしも実はそれで悩んでいる……しかし、典膳の言を容《い》れて上杉へ移る上野介殿なれば、千坂兵部の生前すでにそれをしておるべきが至当ではなかろうか?……」
「—————」
「けっして、典膳を斬らぬとは言わぬ。斬るべきなれば、各々の手をわずらわせる迄《まで》もなくこの堀部安兵衛、宿願の成否を賭《か》け、いのちに代えても斬る」
「!……」
「しかし、今はまだそれより前に為《な》すべきことがあるような気がする。吉良家の絵図面、上野介の動静、身辺にある上杉差向けの家来の数——」
「…………」
「日傭頭前川忠太夫の言によれば、増築普請の名目にて邸内に何らかの仕掛けがある由、それも一応は探索しておかねばならず……多少、わたしにおもうこともあれば、典膳の処置はこの堀部に委《まか》せてもらえまいか。大石どのへ、わたしから話してみるが……」
「大丈夫かの? 貴公に互角と言われたで申すのではないが、それほどの奴《やつ》なればいよいよ以て」
「だから斬るべきなれば斬ると言っておる」
安兵衛がきびしく言ったので鈴田重八も黙り込んだ。
「拙者にはなお危惧《きぐ》はあるが」
したり顔に中村清右衛門がチラと重八を冷笑し、
「堀部どのにここは一番まかせるべきであろう。たしかに目下は上野介が動静をさぐることこそ肝要。まずは、それからじゃ」
誰ももう相手にしないが、言う通りには違いない。
吉良邸の絵図面は、ずっと以前に堀部安兵衛が手に入れている。併《しか》しこれは前住者の松平登之助時代のもので、いくらか参考になる程度にすぎず、それを吉良邸の裏門近くに米屋五兵衛と称して店を出していた前原伊助と神崎与五郎(あずまや善兵衛)が惨澹《さんたん》たる苦心を以て火事だといえば屋根にかけあがり、風雨だといえば物干しにあがって吉良邸を見渡しては、少しずつ補正していった程度にすぎない。岡野金右衛門(九十郎)がこの米屋の店員ということで、吉良の長屋連とも懇意になり、いつしか家中の子守女のおつやと懇《ねんご》ろを通じる恋仲となって、神崎がこれを苦笑し、
同志のものの初恋を見て時雨《しぐれ》を、
神無月《かんなづき》しぐるる風はこゆるとも同じ色なる
末の松山
と詠《よ》んだのもこの頃《ころ》のことだった。岡野はこの|おつや《ヽヽヽ》を利用して邸内を巨細《こさい》に探ることが出来たが、典膳の実情を少しずつ報《し》らせて来たのも岡野である。
その夕刻、安兵衛は大石内蔵助を宿所に訪ねた。
江戸へ乗込んでのちの大石は一党の領袖《りようしゆう》株たる吉田忠左衛門、小野寺十内、原惣右衛門らと会議をひらき、若手の連中を四組に分けて毎夜、吉良・上杉両家の様子を偵察させるのを怠らなかったが、とくに上杉邸の動きには注意を払わせ、且《か》つ吉田忠左衛門なども自ら出動して探索にあたり、兵学上の見地から地理をきわめて、上杉家から助勢を送った場合、どこでどう防ぐかを吟味したという。討入り当夜は吉良邸にちかい本所の無縁寺(回向院《えこういん》)を引揚げ場所と定めてあったので、堀部安兵衛の方は此の辺の道幅、間数、道路を巨細に測量し、追手討手に対する進退懸引に細心の注意を払っていた。
ただ、義士はすべて陪臣の身だから、高家吉良上野介の風貌《ふうぼう》に接した者はひとりもない。従って面相を知らない。そこで或る日、途上で上野介の乗物に相違ないと思われる行列に出会った時、浪士らは、
「よいおりだ、顔を見知っておこう」
と、土下座をした。当時の習慣で、ある家中の者が主家の親類の主人に路上であった時、こうした礼をとれば、相手は乗物の戸をあけて答礼することになっている。それを利用したら、みごとに相手はひっかかり、戸をあけて、
「いずれの衆じゃな?」
と声をかけた。まさしく上野介である。
「松平肥後守家中にて、軽き者にござる」
一人が応《こた》えて遣りすごしたが、同志のもとへ戻《もど》って鬼の首でも取ったようにこの話をすると、
「馬鹿。何故その場で仕止めんか」
言った者があり、内蔵助にたしなめられたというが、討入り当夜の寸前、この二人はいずれも脱走している。
さて安兵衛が日本橋三丁目小山屋弥兵衛の控え屋へ行くと、大石は新麹町の吉田忠左衛門宅へ会議に出たばかりだという。
「主税どのも同道か」
同志の一人、近松勘六がのこっていたので尋ねると、
「さよう。何かよい話の様子にござるが」
勘六は活《い》き活《い》きと目を耀《かが》やかした。安兵衛は、ではそちらへ回ってみよう、独り言につぶやいて直ぐ控え屋を出た。内蔵助のもとへ出入りする時は、目立たぬように編笠《あみがさ》で面体をつつみ、服装も時々かえて、裏口から出入りするようにきめられている。
吉田忠左衛門は田口一真と偽名し、表向きは兵学者である。医者に変装した原惣右衛門、吉田沢右衛門、豪傑の不破数右衛門などが吉田宅には同居している。安兵衛が這入《はい》ってゆくと、会議中の一同は、
「よい時に来た、迎えを出そうと思っておったぞ」
いずれも歓喜を面に溢《あふ》らせて目迎《めむか》えた。