その日。僕は、南カリフォルニアにいた。
ロス・アンゼルス。
ウエスト・ハリウッドにあるレストラン兼バーに、1人で入っていった。
たそがれの一杯を飲むためだ。
3日間にわたるオーディションで、少し疲れていた。
仕事は、新発売されるグレープフルーツ・ジュースのキャンペーンだった。
CM、ポスター、雑誌広告のための撮影《ロケ》だ。
少年少女から初老の男女まで、かなりな数のモデルが必要だった。
3日間で、たぶん500人近いモデルやタレントと会っただろう。
そのオーディションも、やっと終わった。僕が入ったのは、オーディション会場のプロダクションからすぐ近くにある店だった。
店には、けっこう客が入っていた。
空いている席はなさそうだった。ウエイターが、申し訳なさそうな顔をする。
そのときだった。
窓ぎわの席にいる中年の女性に、僕は気づいた。向こうも、ほとんど同時に僕に気づいた。
彼女は、オーディションの最後から2人目にやってきたタレントだった。
〈こっちへいらっしゃいよ〉そんな手ぶりを、彼女はした。4人がけのテーブルに1人で坐っていた。
僕は、そっちに歩いていった。
「いいかな? 同席して」
「もちろん」
彼女は、花が咲いたような笑顔を見せた。
僕は、彼女と向かい合って坐る。飲み物とフレンチ・フライを、ウエイターに注文した。
彼女は、ダイエット・ペプシを飲みながら、カニとアボカドのサラダを食べていた。
「オーディションは終わったの?」
と彼女。少し茶色がかった金髪に、たそがれの陽《ひ》ざしが光る。
「ああ。結果を出すのは、たぶん明日になると思うけど」
僕は言った。
「ところで、あなたはだいぶ以前に、ここハリウッドで女優をやっていたんだって?」
と僕はきいた。アメリカ人のキャスティング係が、そう言っていたのだ。
彼女は、うなずく。ちょっと苦笑いして、
「ずいぶん昔ね。10代の終わり頃よ」
と言った。
「ずっと女優の仕事をやめてたらしいけど、なぜか理由《わけ》があって?」
「まず理由その1。大スターになれそうにもなかったから」
「理由その2は?」
「お金持ちで素敵な相手にプロポーズされたから」
「それをうけたわけだ」
彼女は、アボカドを突つきながらうなずく。
「結婚して、ずっとニューヨークで暮らしてたわ」
「それが……こうやって仕事にカムバックした理由《わけ》は、きいていいかな?」
「たいした理由はないわ。単純よ。離婚して、ロスに帰ってきたの。はじめのうち、彼からの慰謝料で暮らしていこうと思ってたし、そうしてたんだけど……」
「けど?」
彼女は、無言。しばらく窓の外をながめていた。
「また仕事をはじめるきっかけになったのは、あのクルマなの」
彼女は、つぶやくように言った。
「あのクルマ?」
僕は、彼女の視線を追って窓の外を見た。
店の前の道路に、1台のクルマが駐《と》まっていた。ピンクのオールド・カー。50年代か60年代のクルマだろう。
古い。けれど、きれいに手入れされていた。
「あのクルマ……私が19歳のときに新車で買ったものなの」
と彼女。ぽつりぽつりと話しつづける。
「しばらくして彼のプロポーズをうけて、女優をやめて、有頂天でニューヨークにいったわ」
「あのクルマは?」
「もちろん、売り飛ばしていったわ」
と彼女。カニの身をつまんでつぶやいた。
「離婚してロスに帰ってきても、あのクルマのことはすっかり忘れてて……」
「…………」
「……ちょうど1年ぐらい前だったわ。ラ・シェネガBLVD《ブルヴアード》を歩いてて、あのクルマに再会したの」
「ラ・シェネガ?」
彼女は、うなずく。
「中古車屋に並んでたの」
「中古車屋か……」
「でも、これがあのクルマ? と思うほど、よく手入れされていたわ」
「本当に、あなたが持ってたのと同じクルマ?」
「私が驚いて、あちこち見たわ。でも、まちがいなかった。シートのすみにつけた煙草のコゲあととか、スピード・メーターのガラスについている小さな傷とかね……」
「……感激した?」
「まず驚いて……それから、胸が熱くなったわ……」
「…………」
「私がのうのうと結婚生活を送って、離婚して、ボサーッとしたままオバサンになっていこうとしているのに、このクルマはその間もずっと走りつづけていたんだなあって……」
「…………」
「もちろん、その間のオーナーの手入れが良かったせいもあるだろうけど、ピカピカでがんばってるクルマを見たら、やはり胸が熱くなって……」
「…………」
「私もこうしちゃいられないと思ったわ」
と彼女。そのクルマをすぐさま買い戻すと、タレント・エージェンシーに連絡をとったと言った。そして、仕事にカムバックしたということらしい。
やがて食事を終えると、彼女は僕と握手。背筋をのばして店を出ていった。駐《と》めてあるクルマに乗り込む。エンジンをかける。
よく磨き込まれたバンパーが、南カリフォルニアの夕陽《ゆうひ》に光った。