「あれ?」
先に気づいたのは、僕の方だった。
彼女は、足をとめる。2、3秒、僕を見て、
「ああ……」
と言った。
ホノルル。午後4時。Sホテルのロビー。
「あのときは、失礼しちゃって」
と彼女。
「いや。気にしなくていいさ」
僕は言った。あのときとは、約10時間前。高度1万メートルでの出来事だ。
□
僕は、ホノルル行きジャンボ・ジェットの通路側《アイル》シートに坐っていた。広告の撮影《ロケ》のためだった。
アメリカの航空会社だった。そして、彼女はその便のスチュワーデスだった。顔かたちは、日米のハーフかクォーター。胸のネーム・プレートには〈Mayumi《マユミ・》 Johnson《ジヨンソン》〉と刻まれていた。
20代の半ばだろう。ショート・カット。長身。日本語も完璧《かんぺき》に話せた。
日本からハワイに飛ぶ約6時間。その終わり頃だった。
僕の後ろのシートの日本人客が、彼女にオレンジ・ジュースを頼んだ。コップに入れたジュースを|お盆《トレイ》にのせて、彼女は運んでくる。まちがえて、僕にジュースを渡そうとした。
「僕じゃないよ」
と言った。
彼女はトレイを持って、一瞬、見回した。
そのときだった。トレイが、僕の前のシートにぶつかった。ジュースのコップが、僕のヒザに落ちてきた。下半身にかけていた航空会社のブランケットに、ジュースが飛び散った。
が、ブランケットの上だ。僕のジーンズもスニーカーも、濡《ぬ》れなかった。
アメリカの航空会社だった。そして、彼女はその便のスチュワーデスだった。顔かたちは、日米のハーフかクォーター。胸のネーム・プレートには〈Mayumi《マユミ・》 Johnson《ジヨンソン》〉と刻まれていた。
20代の半ばだろう。ショート・カット。長身。日本語も完璧《かんぺき》に話せた。
日本からハワイに飛ぶ約6時間。その終わり頃だった。
僕の後ろのシートの日本人客が、彼女にオレンジ・ジュースを頼んだ。コップに入れたジュースを|お盆《トレイ》にのせて、彼女は運んでくる。まちがえて、僕にジュースを渡そうとした。
「僕じゃないよ」
と言った。
彼女はトレイを持って、一瞬、見回した。
そのときだった。トレイが、僕の前のシートにぶつかった。ジュースのコップが、僕のヒザに落ちてきた。下半身にかけていた航空会社のブランケットに、ジュースが飛び散った。
が、ブランケットの上だ。僕のジーンズもスニーカーも、濡《ぬ》れなかった。
□
「でも、本当にごめんなさい」
と彼女。きれいな日本語で言った。
「本当に気にしなくていいさ」
僕は、苦笑まじりにくり返した。
「でも、ユニフォームじゃないから、一瞬、わからなかった」
と彼女に言った。彼女はオフ・ホワイトのニットを着ていた。
「あなたは、そのアロハでわかったわ」
と彼女。
確かに、僕は飛行機の中と同じアロハを着ていた。古着《アンテイツク》だが、派手な色調のものだ。
「このホテルに泊まってるの?」
と彼女にきいた。彼女は、うなずく。
「ここが、うちの乗務員《クルー》の常宿なの」
「偶然だね。僕らも、今回はここなんだ」
僕は言った。
「|撮 影 隊《シユーテイング・クルー》の方でしょ?」
「どうしてわかる?」
「それは、職業的なカンよ」
と彼女。微笑《わら》いながら、
「それに、あなたのシートの下に、プロ用のカメラ・ケースがあったわ」
と言った。
「そうか……ところで、今夜の夕食でも、どう?」
軽い気持ちで、僕は言った。
「ほかのスタッフの人達は?」
「連中、ケアモク|通り《ストリート》の焼き肉屋にいくっていうんだけど、僕は焼き肉があまり好きじゃなくて」
と僕は言った。彼女は、白い歯を見せて笑った。
と彼女。きれいな日本語で言った。
「本当に気にしなくていいさ」
僕は、苦笑まじりにくり返した。
「でも、ユニフォームじゃないから、一瞬、わからなかった」
と彼女に言った。彼女はオフ・ホワイトのニットを着ていた。
「あなたは、そのアロハでわかったわ」
と彼女。
確かに、僕は飛行機の中と同じアロハを着ていた。古着《アンテイツク》だが、派手な色調のものだ。
「このホテルに泊まってるの?」
と彼女にきいた。彼女は、うなずく。
「ここが、うちの乗務員《クルー》の常宿なの」
「偶然だね。僕らも、今回はここなんだ」
僕は言った。
「|撮 影 隊《シユーテイング・クルー》の方でしょ?」
「どうしてわかる?」
「それは、職業的なカンよ」
と彼女。微笑《わら》いながら、
「それに、あなたのシートの下に、プロ用のカメラ・ケースがあったわ」
と言った。
「そうか……ところで、今夜の夕食でも、どう?」
軽い気持ちで、僕は言った。
「ほかのスタッフの人達は?」
「連中、ケアモク|通り《ストリート》の焼き肉屋にいくっていうんだけど、僕は焼き肉があまり好きじゃなくて」
と僕は言った。彼女は、白い歯を見せて笑った。
□
ホノルルの西。ケワロ湾《ベースン》に面したシーフード・レストラン〈ジョン・ドミノス〉。
僕と彼女は、窓ぎわのテーブルについていた。窓の外には、帰港してくるトローリング・ボートが見えた。
「ひとつききたいんだけど、君、眼が悪いんじゃない?」
僕はきいた。
「なぜ、わかったの?」
「職業的なカンさ」
僕は、白い歯を見せた。
彼女は、僕にジュースをこぼす前にも、客の顔をまちがえていた。
「飛行機の中って、乾燥してるでしょう。だから、コンタクト・レンズをつけっぱなしにできないの」
と彼女。
「コンタクトつけててもかなり近眼なのに、機内食のサーヴィスが終わったら、はずしちゃうから、お客の顔は、よくまちがえるわ」
彼女は、苦笑い。
「勉強のやり過ぎ?」
生|牡蠣《かき》を1個つまみながら、僕はきいた。
「大学生の頃、ひとの分までタイプを打ったのがいけなかったみたい」
「ひとの分?……恋人《ステデイ》?」
彼女も牡蠣をつまみながらうなずいた。
「U・C・L・Aの学生だった頃の話」
と彼女。カラリと言った。そんな風に言えるほど、遠く過ぎた恋らしい。
「私はスチュワーデスになる夢。彼は作家になる夢を持っていたわ」
「作家?」
「そう。彼がノートに鉛筆で書いた細かい字を、私がタイプして、出版社に送ってたわ」 と彼女。
「その細かい字を読んでいるうちに、もともとの近眼がひどくなっちゃったみたい」
と、軽く苦笑い。
「で、彼は作家になれた?」
「さあ……どうなったか……」
彼女は、つぶやいた。もうカラになった牡蠣を、まちがえてフォークで突ついた。
「近眼って、嫌ね」
彼女はまた、少しホロ苦く微笑《わら》った。
「……でも……あまりはっきり見えちゃわない方がいい事って、世の中にけっこう多いのよ」
彼女は言った。僕は、ゆっくりとうなずいた。
僕と彼女は、窓ぎわのテーブルについていた。窓の外には、帰港してくるトローリング・ボートが見えた。
「ひとつききたいんだけど、君、眼が悪いんじゃない?」
僕はきいた。
「なぜ、わかったの?」
「職業的なカンさ」
僕は、白い歯を見せた。
彼女は、僕にジュースをこぼす前にも、客の顔をまちがえていた。
「飛行機の中って、乾燥してるでしょう。だから、コンタクト・レンズをつけっぱなしにできないの」
と彼女。
「コンタクトつけててもかなり近眼なのに、機内食のサーヴィスが終わったら、はずしちゃうから、お客の顔は、よくまちがえるわ」
彼女は、苦笑い。
「勉強のやり過ぎ?」
生|牡蠣《かき》を1個つまみながら、僕はきいた。
「大学生の頃、ひとの分までタイプを打ったのがいけなかったみたい」
「ひとの分?……恋人《ステデイ》?」
彼女も牡蠣をつまみながらうなずいた。
「U・C・L・Aの学生だった頃の話」
と彼女。カラリと言った。そんな風に言えるほど、遠く過ぎた恋らしい。
「私はスチュワーデスになる夢。彼は作家になる夢を持っていたわ」
「作家?」
「そう。彼がノートに鉛筆で書いた細かい字を、私がタイプして、出版社に送ってたわ」 と彼女。
「その細かい字を読んでいるうちに、もともとの近眼がひどくなっちゃったみたい」
と、軽く苦笑い。
「で、彼は作家になれた?」
「さあ……どうなったか……」
彼女は、つぶやいた。もうカラになった牡蠣を、まちがえてフォークで突ついた。
「近眼って、嫌ね」
彼女はまた、少しホロ苦く微笑《わら》った。
「……でも……あまりはっきり見えちゃわない方がいい事って、世の中にけっこう多いのよ」
彼女は言った。僕は、ゆっくりとうなずいた。
□
翌日。夕方の5時。
ロケから戻った僕は、ホテルのベランダに出た。たそがれていく海と空をながめた。
空港の方から、1機、離陸していくのが見えた。腕時計を見る。彼女が乗務しているロス行きかもしれなかった。
きのう。別れぎわ。彼女とかわした短いキスを、僕はふと思い出していた。眼を細める。
はるか上空のジェット・ストリーム(偏西風)めざして高度を上げていくジャンボ・ジェットを見つめた。
彼女が窓から望むたそがれのホノルルの灯は、やはり、少し、かすんで見えるのだろうか……。
ロケから戻った僕は、ホテルのベランダに出た。たそがれていく海と空をながめた。
空港の方から、1機、離陸していくのが見えた。腕時計を見る。彼女が乗務しているロス行きかもしれなかった。
きのう。別れぎわ。彼女とかわした短いキスを、僕はふと思い出していた。眼を細める。
はるか上空のジェット・ストリーム(偏西風)めざして高度を上げていくジャンボ・ジェットを見つめた。
彼女が窓から望むたそがれのホノルルの灯は、やはり、少し、かすんで見えるのだろうか……。