助走なし。ゆっくりと、頭からプールに飛び込む。
ジュッ。
一日中|陽《ひ》ざしに焼かれた体が、そんな音をたてたような気分だった。
僕は、水面に顔を出す。フーッと大きく息を吐いた。仰向けに浮かぶ。頭上で、ヤシの葉が揺れている。
□
インド洋の西端。セイシェル諸島。
その島々の中でも、おそらく最大のホテルに、僕は泊まっていた。
前半の10日間は、広告のロケ。新発売される水着の雑誌広告とポスターだ。4人のモデルと25着の水着。このホテルのあるマヘ島と、ほかの島々で、約150本のフィルムを使った。
ロケ隊のスタッフが日本に帰り、僕はひとり、セイシェルに残った。半分は休息。半分は、小説の取材のためだ。
広告の仕事をしながら、僕はときどき小説を雑誌に載せていた。ほとんどが、エッセイに近い短編小説だった。
が、このセイシェルを舞台に、何か長編が書けそうな気がしていた。一見、平和で美しいこの共和国にも、かなり複雑な国情があるのだ。
イギリスやフランスの統治から独立して、まだ日は浅い。おまけに、赤道のほぼ真下にある。軍事上、重要な位置らしく、港にはヨーロッパ各国の巡洋艦が停泊している。島の中心には、アメリカの衛星追跡ステーションもある。
南洋の美しい島を舞台にした冒険と恋のストーリー。悪くない。
プールに浮かんで、僕はそんなことを思い描いていた。そのときだった。
「きょうの仕事は終わり?」
と明るい声がした。
首を曲げる。歩いてくるシルヴィーが見えた。あい変わらず、背筋をピンと伸ばして歩いてくる。
薄いシルクの半袖《はんそで》ブラウス。タイト・スカート。少し茶色《ブラウン》がかった金髪は、後ろできちっと束ねてある。
その島々の中でも、おそらく最大のホテルに、僕は泊まっていた。
前半の10日間は、広告のロケ。新発売される水着の雑誌広告とポスターだ。4人のモデルと25着の水着。このホテルのあるマヘ島と、ほかの島々で、約150本のフィルムを使った。
ロケ隊のスタッフが日本に帰り、僕はひとり、セイシェルに残った。半分は休息。半分は、小説の取材のためだ。
広告の仕事をしながら、僕はときどき小説を雑誌に載せていた。ほとんどが、エッセイに近い短編小説だった。
が、このセイシェルを舞台に、何か長編が書けそうな気がしていた。一見、平和で美しいこの共和国にも、かなり複雑な国情があるのだ。
イギリスやフランスの統治から独立して、まだ日は浅い。おまけに、赤道のほぼ真下にある。軍事上、重要な位置らしく、港にはヨーロッパ各国の巡洋艦が停泊している。島の中心には、アメリカの衛星追跡ステーションもある。
南洋の美しい島を舞台にした冒険と恋のストーリー。悪くない。
プールに浮かんで、僕はそんなことを思い描いていた。そのときだった。
「きょうの仕事は終わり?」
と明るい声がした。
首を曲げる。歩いてくるシルヴィーが見えた。あい変わらず、背筋をピンと伸ばして歩いてくる。
薄いシルクの半袖《はんそで》ブラウス。タイト・スカート。少し茶色《ブラウン》がかった金髪は、後ろできちっと束ねてある。
□
シルヴィーは、確か26歳。だが、その若さで、ホテルのガーデン・レストランのマネージャーをやっていた。
この南洋のホテルでは、メイン・ダイニングは、ガーデン・レストランになっている。
1階のテラスが、そのままプールサイドにつづいている。テーブル席の一部が、プールのすぐそばまでセットされている。
客たちは、空の星と、青い灯の入ったプールをながめてディナー・タイムを過ごすのだ。
いまは夕方の4時半。プールサイドに客はいない。従業員が、テーブルにフォークやナイフのセッティングをはじめていた。
「これでも仕事中なんだ」
プールのへりにつかまって、僕はシルヴィーに言った。
「頭の中で、脳細胞がワープロのキーを叩《たた》いてるのさ」
と言いながら、プールから上がった。シルヴィーは僕の耳もとで、
「キーを叩く音が、きこえないけど」
と言った。まっ白い歯が夕陽《ゆうひ》に光った。
シルヴィーは、ロケ隊がいた頃から、僕らに親切にしてくれた。ロケ隊が帰ってからは、さらに親切にしてくれた。彼女の仕事が休みの3日前は、2人だけで島のはずれのビーチに泳ぎにいったりもした。
僕は、タオルで濡《ぬ》れた髪を拭《ふ》きはじめる。
シルヴィーのところへ、若い男の従業員がやってきた。
「あの、今夜のリザーヴ客のリストです」
と、ファイルをシルヴィーに見せる。シルヴィーはマネージャーの顔に戻る。リストをチェックしていく。ふと、
「ヘルマン・ベッケンバウアー?……」
と、つぶやいた。
「ええ、Mr.アンド Mrs.ベッケンバウアー。フランクフルトからのお客様です。ハネムーンなので、特にいい席をとのことです」
と従業員。シルヴィーは、5秒、そのリストを見つめる。やがて、
「わかったわ」
と、リストを従業員に返した。
この南洋のホテルでは、メイン・ダイニングは、ガーデン・レストランになっている。
1階のテラスが、そのままプールサイドにつづいている。テーブル席の一部が、プールのすぐそばまでセットされている。
客たちは、空の星と、青い灯の入ったプールをながめてディナー・タイムを過ごすのだ。
いまは夕方の4時半。プールサイドに客はいない。従業員が、テーブルにフォークやナイフのセッティングをはじめていた。
「これでも仕事中なんだ」
プールのへりにつかまって、僕はシルヴィーに言った。
「頭の中で、脳細胞がワープロのキーを叩《たた》いてるのさ」
と言いながら、プールから上がった。シルヴィーは僕の耳もとで、
「キーを叩く音が、きこえないけど」
と言った。まっ白い歯が夕陽《ゆうひ》に光った。
シルヴィーは、ロケ隊がいた頃から、僕らに親切にしてくれた。ロケ隊が帰ってからは、さらに親切にしてくれた。彼女の仕事が休みの3日前は、2人だけで島のはずれのビーチに泳ぎにいったりもした。
僕は、タオルで濡《ぬ》れた髪を拭《ふ》きはじめる。
シルヴィーのところへ、若い男の従業員がやってきた。
「あの、今夜のリザーヴ客のリストです」
と、ファイルをシルヴィーに見せる。シルヴィーはマネージャーの顔に戻る。リストをチェックしていく。ふと、
「ヘルマン・ベッケンバウアー?……」
と、つぶやいた。
「ええ、Mr.アンド Mrs.ベッケンバウアー。フランクフルトからのお客様です。ハネムーンなので、特にいい席をとのことです」
と従業員。シルヴィーは、5秒、そのリストを見つめる。やがて、
「わかったわ」
と、リストを従業員に返した。
□
「知り合いなんだね」
僕は、デッキチェアーに坐《すわ》ってきいた。
「ええ……たぶん、まちがいないわ」
とシルヴィー。僕のとなりに坐った。しばらくの沈黙。やがて、ぽつりと話しはじめた。
「……もう8年も前のことよ。この島にシルヴィーというフランス人の女の子と、ヘルマンというドイツ人の少年が住んでいたわ」
「恋人だった?」
「……ただのボーイフレンドね……」
とシルヴィー。遠くを見る瞳《ひとみ》。
「高校を卒業すると、私はマネージメントの勉強のために母国のフランスに渡り、彼の一家はドイツのフランクフルトに戻っていったわ……」
「それっきり?」
「……手紙が3通……」
とシルヴィー。ぽつりと、つぶやく。やがて、パッと明るい顔に戻る。
「とにかく、|過ぎたことよ《オンリー・イエスタデイ》」
と言った。立ち上がる。
「じゃ、仕事に戻るわ」
とシルヴィー。テキパキと従業員に指示しはじめる。
「Mr.アンドMrs.ベッケンバウアーには、その一番いい席を」
という声が、風に乗ってきこえた。僕は、眼を細めてプールをながめる。きょう最後の陽《ひ》ざしが、青い水面に揺れていた。
僕は、デッキチェアーに坐《すわ》ってきいた。
「ええ……たぶん、まちがいないわ」
とシルヴィー。僕のとなりに坐った。しばらくの沈黙。やがて、ぽつりと話しはじめた。
「……もう8年も前のことよ。この島にシルヴィーというフランス人の女の子と、ヘルマンというドイツ人の少年が住んでいたわ」
「恋人だった?」
「……ただのボーイフレンドね……」
とシルヴィー。遠くを見る瞳《ひとみ》。
「高校を卒業すると、私はマネージメントの勉強のために母国のフランスに渡り、彼の一家はドイツのフランクフルトに戻っていったわ……」
「それっきり?」
「……手紙が3通……」
とシルヴィー。ぽつりと、つぶやく。やがて、パッと明るい顔に戻る。
「とにかく、|過ぎたことよ《オンリー・イエスタデイ》」
と言った。立ち上がる。
「じゃ、仕事に戻るわ」
とシルヴィー。テキパキと従業員に指示しはじめる。
「Mr.アンドMrs.ベッケンバウアーには、その一番いい席を」
という声が、風に乗ってきこえた。僕は、眼を細めてプールをながめる。きょう最後の陽《ひ》ざしが、青い水面に揺れていた。