「また読書なの?」
明るい声が、砂浜に響いた。僕は、読んでいた文庫本から顔を上げた。
眼に痛いほど白い砂浜を、彼女が歩いてくるのが見えた。ピンクの水着が、赤道直下の陽射《ひざ》しに鮮やかだった。
□
2月だった。僕はひとり、インド洋のモルディヴにいた。
モルディヴには、1200もの島々がソバカスのように散っている。1200の中の60ほどの島々が、それぞれ独立したリゾートになっている。そんなリゾート島の1つに、僕は滞在していた。
もう、広告の仕事はあまりやっていなかった。1年のほとんどを、小説を書くことについやしていた。
モルディヴも、小説のための取材だった。インド洋の小島を舞台にしたラヴ・ストーリー。いずれ書くそんな物語のために、島に滞在していた。
島には、建て物と呼べるようなものは無い。宿泊施設は、すべて1戸建てのコテージだ。ヤシの樹《き》の間に、白い小さなコテージが点在している。
僕が泊まっているコテージから海までは30メートルだった。朝起きると、裸足《はだし》で砂浜に出て泳いだ。水音に驚いた小魚の群れが、水面でいっせいに飛びはねた。
小説の取材といっても、島中を走り回るわけではない。インド洋の陽射《ひざ》しを肩にうける。足の裏に、小麦粉のような白砂を感じる。そんなことが、心の中のメモに刻まれていくのだ。
午後になると、砂浜で読書。ヤシの葉影で昼寝。気が向けば、シュノーケルで魚見物。あきると、また読書。昼寝。
彼女が僕に声をかけたのも、そんな、ゆったりとした午後だった。
僕は文庫本から顔を上げて彼女を見た。
「ごらんの通り、読書中さ。君の仕事は?」
「きょうは、レッスンは休み《オフ》よ」
と彼女。深くきれいに灼《や》けた顔の中で、白い歯が光った。
モルディヴには、1200もの島々がソバカスのように散っている。1200の中の60ほどの島々が、それぞれ独立したリゾートになっている。そんなリゾート島の1つに、僕は滞在していた。
もう、広告の仕事はあまりやっていなかった。1年のほとんどを、小説を書くことについやしていた。
モルディヴも、小説のための取材だった。インド洋の小島を舞台にしたラヴ・ストーリー。いずれ書くそんな物語のために、島に滞在していた。
島には、建て物と呼べるようなものは無い。宿泊施設は、すべて1戸建てのコテージだ。ヤシの樹《き》の間に、白い小さなコテージが点在している。
僕が泊まっているコテージから海までは30メートルだった。朝起きると、裸足《はだし》で砂浜に出て泳いだ。水音に驚いた小魚の群れが、水面でいっせいに飛びはねた。
小説の取材といっても、島中を走り回るわけではない。インド洋の陽射《ひざ》しを肩にうける。足の裏に、小麦粉のような白砂を感じる。そんなことが、心の中のメモに刻まれていくのだ。
午後になると、砂浜で読書。ヤシの葉影で昼寝。気が向けば、シュノーケルで魚見物。あきると、また読書。昼寝。
彼女が僕に声をかけたのも、そんな、ゆったりとした午後だった。
僕は文庫本から顔を上げて彼女を見た。
「ごらんの通り、読書中さ。君の仕事は?」
「きょうは、レッスンは休み《オフ》よ」
と彼女。深くきれいに灼《や》けた顔の中で、白い歯が光った。
□
彼女はボード・セイリング、つまりウインド・サーフィンのインストラクターだった。いまは、このリゾート島の専属だった。毎日、薄いグリーンの浅瀬で初心者にレッスンをしていた。
名前はウェンディー。だけれど、誰からもウィンディーと呼ばれていた。
「風を相手の仕事だから、もう何年も、そう呼ばれてきたわ」
彼女は言った。僕らが、はじめて島のバーで口をきいたときだった。
以来、毎晩のように僕とウィンディーはバーで飲んだ。いろいろな話をした。
ウィンディーはカリフォルニア育ち。19歳から、ウインド・サーフィンのインストラクターとして世界中を回っている。
ハワイ諸島。ミクロネシアの島々。タヒチ。オーストラリア。そしてインド洋。
「どこでも、風のあるところが私の故郷よ」
ウィンディーは、そう言って微笑《ほほえ》んだ。グラスを口に運んだ。
「でも、そんな生活じゃ、特定の恋人《ステデイー》をつくるのが難しいんじゃないのかな?」
ときく僕に、ウィンディーは数秒考える。
「ウインドのボードは、一人乗りよ」
と言った。
「ときどき2人乗りしてるのを見るけど」
「ああ、あれは遊びか、アクロバットね。でも、どっちみち長くは続けられないわ」
ウィンディーは、微笑《わら》った。笑顔の中に、かすかな苦さが漂っていた。風のように自由に生きていくことは、孤独を友にした旅なのかもしれない。グラスを口に運びながら、僕はそんなことを思った。
名前はウェンディー。だけれど、誰からもウィンディーと呼ばれていた。
「風を相手の仕事だから、もう何年も、そう呼ばれてきたわ」
彼女は言った。僕らが、はじめて島のバーで口をきいたときだった。
以来、毎晩のように僕とウィンディーはバーで飲んだ。いろいろな話をした。
ウィンディーはカリフォルニア育ち。19歳から、ウインド・サーフィンのインストラクターとして世界中を回っている。
ハワイ諸島。ミクロネシアの島々。タヒチ。オーストラリア。そしてインド洋。
「どこでも、風のあるところが私の故郷よ」
ウィンディーは、そう言って微笑《ほほえ》んだ。グラスを口に運んだ。
「でも、そんな生活じゃ、特定の恋人《ステデイー》をつくるのが難しいんじゃないのかな?」
ときく僕に、ウィンディーは数秒考える。
「ウインドのボードは、一人乗りよ」
と言った。
「ときどき2人乗りしてるのを見るけど」
「ああ、あれは遊びか、アクロバットね。でも、どっちみち長くは続けられないわ」
ウィンディーは、微笑《わら》った。笑顔の中に、かすかな苦さが漂っていた。風のように自由に生きていくことは、孤独を友にした旅なのかもしれない。グラスを口に運びながら、僕はそんなことを思った。
□
僕は、読んでいた文庫本を閉じた。ウィンディーは、突っ立って水平線を見つめていた。
「何してるんだい」
「匂《にお》いをかいでいるのよ、風の」
「風の匂い?」
「そう。どこの風にも、それぞれに匂いがあるわ」
とウィンディー。
「たとえば、ハワイ・マウイ島の風にはパイナップルの匂いがするし、タヒチの風にはティアレっていう花の匂いがするの」
僕は、ゆっくりとうなずいた。
「じゃ、いま、ここの風は?」
「とりあえず、スコールがくるわ。雨の匂いがする」
「雨?」
僕は、思わずきき返した。空はどこまでも青く、陽射《ひざ》しはまぶしかった。
けれど、ウィンディーの言葉は正しかった。10分もしないうちに、スコールがやってきた。
僕とウィンディーは、すぐ近くの僕のコテージに逃げ込んだ。天気雨だ。すぐに上がるだろう。僕らは窓ぎわで、ヤシの葉を打つスコールをながめた。
「あなた、小説家よね」
「ああ。いちおう」
「たとえば、こんな小さな島を舞台にしたら、どんなストーリーを書くの?」
僕は、しばらく考える。
「ラヴ・ストーリーさ」
「ラヴ・ストーリー?」
「……たとえば、僕みたいにひとり旅をしている日本人が、美しい娘と出会って、ちょっとしたきっかけで恋に落ちる……」
「ちょっとしたきっかけ?」
「ああ……」
「どんな、きっかけ?…」
眼が合った。ゆっくりと、顔が近づいていく。唇と唇が、そっと触れ合う……。
やがて、ウィンディーは唇をはなす。そっと微笑《ほほえ》む。
「第1章は、ここまで、第2章は、後で」
と、ささやいた。コテージを出ていった。
もう、スコールは上がっていた。ハイビスカスの花に、水滴がのっている。水滴は、午後の陽射しに光っていた。
「何してるんだい」
「匂《にお》いをかいでいるのよ、風の」
「風の匂い?」
「そう。どこの風にも、それぞれに匂いがあるわ」
とウィンディー。
「たとえば、ハワイ・マウイ島の風にはパイナップルの匂いがするし、タヒチの風にはティアレっていう花の匂いがするの」
僕は、ゆっくりとうなずいた。
「じゃ、いま、ここの風は?」
「とりあえず、スコールがくるわ。雨の匂いがする」
「雨?」
僕は、思わずきき返した。空はどこまでも青く、陽射《ひざ》しはまぶしかった。
けれど、ウィンディーの言葉は正しかった。10分もしないうちに、スコールがやってきた。
僕とウィンディーは、すぐ近くの僕のコテージに逃げ込んだ。天気雨だ。すぐに上がるだろう。僕らは窓ぎわで、ヤシの葉を打つスコールをながめた。
「あなた、小説家よね」
「ああ。いちおう」
「たとえば、こんな小さな島を舞台にしたら、どんなストーリーを書くの?」
僕は、しばらく考える。
「ラヴ・ストーリーさ」
「ラヴ・ストーリー?」
「……たとえば、僕みたいにひとり旅をしている日本人が、美しい娘と出会って、ちょっとしたきっかけで恋に落ちる……」
「ちょっとしたきっかけ?」
「ああ……」
「どんな、きっかけ?…」
眼が合った。ゆっくりと、顔が近づいていく。唇と唇が、そっと触れ合う……。
やがて、ウィンディーは唇をはなす。そっと微笑《ほほえ》む。
「第1章は、ここまで、第2章は、後で」
と、ささやいた。コテージを出ていった。
もう、スコールは上がっていた。ハイビスカスの花に、水滴がのっている。水滴は、午後の陽射しに光っていた。
□
1週間後。
僕は、帰国するために船に乗っていた。ドーニと呼ばれる小船だ。リゾート島から、空港のある島に向かっていた。
ドーニがリゾート島を出発して、1、2分後だった。ウインド・サーファーが見えた。
青い水平線。ピンクの水着と、同じピンクのセイル。ウィンディーだった。
ウィンディーは、波の上を疾走しながら、僕に片手を振った。白く光る歯が、チラリと見えた。反転して、遠ざかっていった。すぐに見えなくなった。
僕は、帰国するために船に乗っていた。ドーニと呼ばれる小船だ。リゾート島から、空港のある島に向かっていた。
ドーニがリゾート島を出発して、1、2分後だった。ウインド・サーファーが見えた。
青い水平線。ピンクの水着と、同じピンクのセイル。ウィンディーだった。
ウィンディーは、波の上を疾走しながら、僕に片手を振った。白く光る歯が、チラリと見えた。反転して、遠ざかっていった。すぐに見えなくなった。