その夜明け。
僕らは、船着き場で待っていた。
南太平洋。フレンチ・ポリネシアの島の1つ。
その船着き場だ。
ここから、連絡船で飛行場のある島に渡る。
そこからまた、飛行機を乗りついで日本に帰るためだ。
約1週間の撮影《ロケ》。そのエンディングだった。
スタッフの1人は、岸壁に坐り込んで煙草を吸っていた。別の1人は、あたりをブラブラとしていた。
僕は、撮影機材を入れたジュラルミンのケースに腰かけていた。
南洋といっても、明け方はけっこう涼しい。ヨットパーカーをはおって、機材ケースに腰かけていた。
「あの、ちょっと申しわけないが」
と声をかけられたのは、そんなときだった。
□
ふり向く。男が1人立っていた。
白人。30代の後半だろう。金髪が少し後退していた。ウエストまわりにも、贅肉《ぜいにく》がついている。
中年。そんな言葉がそろそろ似合いかけているように見えた。
男は、オフ・ホワイトの上着《ジヤケツト》を身につけていた。
左手には、小さなボストンバッグ。右手には、楽器ケースのような物を持っていた。
「何か?」
ときく僕に、
「ちょっとトイレにいってきたいんだが、これを見ててくれないか」
と男。右手に持った楽器ケースを眼でさした。
船着き場から少し離れたところに、ごく簡単なトイレがあった。
しかし、そのあたりにいるのは、ほんの数人。
人間と荷物をホテルから運んできたマイクロバスの運転手。
岸壁で釣り糸をたれている少年。
白人の観光客が2人。
それに、僕ら日本人のロケ・スタッフ。
そのぐらいのものだ。彼の楽器ケースを盗んでいきそうな人間は、まず見当たらなかった。それでも男は、真剣な顔で、
「すぐ戻ってくるから」
と言った。僕は、うなずいた。どっちみち、いまはただ船を待っているだけだ。
男は、楽器ケースを、僕らの機材ケースのわきに置く。ボストンバッグも、となりに置く。トイレの方に歩いていた。
その後ろ姿を見送りながら、僕は思い出していた。
白人。30代の後半だろう。金髪が少し後退していた。ウエストまわりにも、贅肉《ぜいにく》がついている。
中年。そんな言葉がそろそろ似合いかけているように見えた。
男は、オフ・ホワイトの上着《ジヤケツト》を身につけていた。
左手には、小さなボストンバッグ。右手には、楽器ケースのような物を持っていた。
「何か?」
ときく僕に、
「ちょっとトイレにいってきたいんだが、これを見ててくれないか」
と男。右手に持った楽器ケースを眼でさした。
船着き場から少し離れたところに、ごく簡単なトイレがあった。
しかし、そのあたりにいるのは、ほんの数人。
人間と荷物をホテルから運んできたマイクロバスの運転手。
岸壁で釣り糸をたれている少年。
白人の観光客が2人。
それに、僕ら日本人のロケ・スタッフ。
そのぐらいのものだ。彼の楽器ケースを盗んでいきそうな人間は、まず見当たらなかった。それでも男は、真剣な顔で、
「すぐ戻ってくるから」
と言った。僕は、うなずいた。どっちみち、いまはただ船を待っているだけだ。
男は、楽器ケースを、僕らの機材ケースのわきに置く。ボストンバッグも、となりに置く。トイレの方に歩いていた。
その後ろ姿を見送りながら、僕は思い出していた。
□
男は、昨夜、僕らの泊まっているホテルのバーでアルト・サックスを吹いていた。
同じ白人の女性ピアニストと彼。二人だけのバンドだった。
僕らや白人観光客たちの飲んでいるバーのすみで、彼らは演奏していた。僕は、聴くともなしに、演奏に耳をかたむけていた。
男の演奏は、いかにも観光客用のものだった。
もともと甘ったるいラヴ・ソングを、思い入れたっぷりに、さらに甘く甘く演奏していた。
しかし、それはそれでいいのかもしれない。おもに初老の白人観光客たちは、うっとりとした表情でそれを聴いていた。曲に合わせて、スロー・ダンスを踊っている老夫婦もいた。
そんな光景を思い出しているうちに、男がトイレから戻ってきた。
「やあ、すまないね」
と男。僕は微笑《わら》いながら、
「別に」
と答えた。船は遅れているらしかった。男は上着のポケットからマルボロを出すと、
「日本に帰るのかい?」
と、きいた。僕はうなずくと、
「あんたは、どこへ?」
ときき返した。
「ロスさ」
と男。少し間をおいて、
「あっちのフュージョン・バンドから誘いがかかってね。いくことにしたんだ」
と言った。煙草の煙を吐き出す。
ロス。フュージョン。ということは、第一線での演奏。そんな連想が、僕の頭のすみをかすめる。
同時に、意外そうな表情が、僕の顔に出たんだろう。それに気づいたのか、
「そういえば、きのうの夜、あんたたち、ホテルのバーで演奏を聴いてたな……」
と男。僕は、うなずいた。男は、苦笑しながら、
「弁解させてもらえば、あれはいわば金稼ぎのための仕事でね」
と言った。僕は、なんとなくうなずく。
「そうだ。あんな演奏が本当の私だと思われちゃ心外だ。楽器を見張ってもらったお礼に1曲聴いてもらおう」
と男。楽器ケースから、ゆっくりとアルト・サックスをとり出した。
くわえてた煙草を、海に弾き飛ばす。唇をサックスのリードに触れる。息を吸い込む。一瞬ためる。そして、吹きはじめた。
岸壁の端から、鳥が飛び立った。僕は、思わず、男の横顔を見た。
聴いたことはある。が、タイトルは知らないジャズ・バラードだった。アルト・サックスから流れる音は、力強かった。鋭かった。気持ちよく乾いていた。そして、叙情的《リリカル》だった。
明るくなってきた空。夜明けの淡い陽《ひ》ざしが、楽器に光る。
男は、眼を閉じてアルトを吹いていた。その、前夜とは別人のような音を聴きながら、僕はふと思い出していた。きのう、一緒に演奏していた女性ピアニストのことだ。
休憩時間《インターミツシヨン》にも、二人は、バーのすみで飲んでいた。ただの仕事仲間にも見えたし、もっと親しい間柄のようにも見えた。その彼女の姿は、いまはない。
しかし……と僕は思った。そんなことを考えたり想像してみたところで、なんの意味もないのだ。
僕は、明けていく空を見上げた。ひんやりとした空気を胸に吸い込んだ。
男の吹くバラードが、岸壁に流れつづけていた。
同じ白人の女性ピアニストと彼。二人だけのバンドだった。
僕らや白人観光客たちの飲んでいるバーのすみで、彼らは演奏していた。僕は、聴くともなしに、演奏に耳をかたむけていた。
男の演奏は、いかにも観光客用のものだった。
もともと甘ったるいラヴ・ソングを、思い入れたっぷりに、さらに甘く甘く演奏していた。
しかし、それはそれでいいのかもしれない。おもに初老の白人観光客たちは、うっとりとした表情でそれを聴いていた。曲に合わせて、スロー・ダンスを踊っている老夫婦もいた。
そんな光景を思い出しているうちに、男がトイレから戻ってきた。
「やあ、すまないね」
と男。僕は微笑《わら》いながら、
「別に」
と答えた。船は遅れているらしかった。男は上着のポケットからマルボロを出すと、
「日本に帰るのかい?」
と、きいた。僕はうなずくと、
「あんたは、どこへ?」
ときき返した。
「ロスさ」
と男。少し間をおいて、
「あっちのフュージョン・バンドから誘いがかかってね。いくことにしたんだ」
と言った。煙草の煙を吐き出す。
ロス。フュージョン。ということは、第一線での演奏。そんな連想が、僕の頭のすみをかすめる。
同時に、意外そうな表情が、僕の顔に出たんだろう。それに気づいたのか、
「そういえば、きのうの夜、あんたたち、ホテルのバーで演奏を聴いてたな……」
と男。僕は、うなずいた。男は、苦笑しながら、
「弁解させてもらえば、あれはいわば金稼ぎのための仕事でね」
と言った。僕は、なんとなくうなずく。
「そうだ。あんな演奏が本当の私だと思われちゃ心外だ。楽器を見張ってもらったお礼に1曲聴いてもらおう」
と男。楽器ケースから、ゆっくりとアルト・サックスをとり出した。
くわえてた煙草を、海に弾き飛ばす。唇をサックスのリードに触れる。息を吸い込む。一瞬ためる。そして、吹きはじめた。
岸壁の端から、鳥が飛び立った。僕は、思わず、男の横顔を見た。
聴いたことはある。が、タイトルは知らないジャズ・バラードだった。アルト・サックスから流れる音は、力強かった。鋭かった。気持ちよく乾いていた。そして、叙情的《リリカル》だった。
明るくなってきた空。夜明けの淡い陽《ひ》ざしが、楽器に光る。
男は、眼を閉じてアルトを吹いていた。その、前夜とは別人のような音を聴きながら、僕はふと思い出していた。きのう、一緒に演奏していた女性ピアニストのことだ。
休憩時間《インターミツシヨン》にも、二人は、バーのすみで飲んでいた。ただの仕事仲間にも見えたし、もっと親しい間柄のようにも見えた。その彼女の姿は、いまはない。
しかし……と僕は思った。そんなことを考えたり想像してみたところで、なんの意味もないのだ。
僕は、明けていく空を見上げた。ひんやりとした空気を胸に吸い込んだ。
男の吹くバラードが、岸壁に流れつづけていた。