子供のころから、いわゆるコワイ話というのが大好きだった。楳図《うめず》かずおの恐怖漫画はもちろんのこと、大人から時折聞く不思議な話や、友達が夏休みに田舎で体験したぞっとするような話……などにはもう、夢中になり、宿題そっちのけで聞き入ったものである。
心霊写真が雑誌などに掲載されるようになると、興味津々で眺めたし、幽霊談ばかりでなく、宇宙人がどうしたこうした、といったSF的な話や吸血鬼の話にも魅了された。
今でも基本的にはこうした話は大好きである。わが家には、私が集めた幻想恐怖小説専用の本棚があるほどだ。
だが、さすがにいわゆるコドモだまし的な「よくあるコワイ話」には興味を持てなくなった。タクシーの運転手が人けのない道で女の客を拾ったが、目的地まで来ると消えていた。その家では折りしも、通夜の真最中であった……とか、自殺者が出たことのある空き家から、夜な夜なおかしな泣き声が聞こえた……とかいった話は、こわくもなんともない。
だいたいそうした類いの話というのは、誰かが言い出してから広まって、嘘《うそ》か誠か定かではないままに、一種の現代民話ふうに語り継がれてきた話にすぎない。
怪談というのは、話し手が聞き手の想像力をかきたてようとして、語れば語るほど、脚色されていくものなのだ。冷静に考えてみると、これほど怖くない話というのもない気がする。
ただ、私には今だに、というよりも、今だからこそ怖いと思える話がひとつある。
私の母は生まれつき直感が鋭く、幼いころから何度か科学で解明できない不可思議な体験をしてきた人間である。身近な人が死ぬ時は、たいてい、事前に予知するし、真っ昼間に明るい家の茶の間で、すでに死んだ人の存在を感じたりもする。
また、買物の途中、交通量が多い賑《にぎ》やかな場所で、見知らぬ霊を見かけたりもする。明らかにこの世のものではない人間が、ふっと現れ、さみしそうに肩を落として母の目の前を歩くんだそうである。あれ、と思って目をこらすと、確かに今まで前を歩いていた人がふっと消える。それで、母は「ああ、また」と思うんだそうだ。
あまりにそうしたことに慣れてるので、本人は別段、驚かないらしいが、聞いているほうはいちいちぞっとさせられる。あっけらかんと話をされると、かえって怖いのである。
その母が私を産んだ時のこと。東京中野の産院だったが、あいにく、出産予定日前後はベッドがひとつ残らずふさがっていた。困った父が「なんとかなりませんか」と持ちかけると、産院側は「個室ならあります」と言う。費用が高くついても結構、と思って父はその個室をとった。
無事に出産が終わり(夜六時半ころ、私は産声をあげたらしい)、母はその個室に私ともども移された。
母はその部屋に入った途端、ぞっとしたと言う。何の変哲もない部屋だったが、どことなくカビ臭く、おまけにベッドのマットレスは長い間、人が寝ていたことを裏づけるかのように、人型にへこんでいた。
何かあるな、いやだな、と思ったのも束の間、疲れていた母は眠った。二、三時間うとうとした後のこと。身体中に妙な感触があることに気づいて目を開けた。何かが、母の身体を撫《な》でまわしていた。それはなんとも言えない不気味な感触だったらしい。
母は勇気を出して布団をめくった。そしてそこに、ベッドの下から伸びている二本の青白い手を見てしまったのである。それでも母は気丈に耐えた。念仏を唱え、心を安らかにしようと努力した。
手は明け方までそこにいた。哀しそうに見える手だった、と言う。
翌朝の回診の時、看護婦に正直に打ち明けた。看護婦は「困った」という顔をしながらも、その部屋のそのベッドで産後の肥立ちが悪く、長患いした後に死んだ女性がいたという話をしてくれた。赤ん坊もその時、死んだのだという。
母は今でも言う。「あの時の女の人があんたのことを自分の子供だと思って、あの世から守ってくれてる気がしてならない」と。笑われるかもしれないが私は、その通りだと信じている。何故か、その通りだと思えてならないのである。