新年を迎えたばかりだというに、こんなことは書きたくないのだけど、去年はホントにいいことの少ない年だった。
まずひとつは健康面。新年早々、体調を崩して病院に行ったのがそもそもの始まりで、以来、どうも肉体のノリが悪く、やれ、あっちがおかしい、こっちがおかしい……と年に三度も検査を受けた。病院通いが年に三度! これは新記録であり、これまで払いこむばかりで一向に利用しなかった国民健康保険の貸しを一挙にチャラにしてしまったようなものだ。
結果、なんともなかったので肩すかしを食らいながらもほっとしたが、「あなた、それは年のせいなのよ」とかなんとか周りから言われてガックリ。三十路半ばにさしかかるに至って、どっとこれまでの疲れが出た感じであった。
健康面のお次は、人間関係。何があったというわけではない。だが、どうも、物事すべてがスムースにいかず、せっかく完成しかかったパズルが最後の一片をはめようとした時に地震が起こり、全部ぐしゃぐしゃになってしまうような、そんな具合で、ツレアイ相手に愚痴ばかりこぼしていた。
その他にも、とてもここに書いて公にするわけにはいかないが、原因が定かではなく、ただひたすら運命だ、と呪うしかない不運が幾つかあったし……やれやれ。まあ、生きてればこんな年もあるのだろう。
昔、友達と「最悪にツイてない時の話」をし合って、どっちがより多くツイてなかったか、競い合ったことを思い出す。私が何を話したかは忘れてしまったが、忘れてしまうくらいだから大した話ではなかったのだと思う。でも、その時に聞いた友達の話は悲惨でした。
なにしろ、彼女は婚約までしていた恋人にふられ、傷心の思いでひとり銭湯に行ったら、石鹸《せつけん》ですべって転んで腕の骨を折り、病院から帰ってみると、アパートの彼女の部屋に泥棒が入っていて、現金と預金通帳、それにテレビや洋服、下着に至るまできれいに盗まれていた……というのだから、文字通り、踏んだり蹴《け》ったり。
「落ち込んだなんてもんじゃないわよ」
と彼女は言っていた。「落ち込みすぎると人間って笑うのね。笑ったわよ、もう」……その気持ちはよくわかる。
人間は怒りの対象がはっきりしている時は、落ち込んだり嘆き悲しんだりしないものだ。たとえば、自分をおとしめた相手や自分を罠《わな》にはめた相手、理不尽な攻撃をしてきた相手に対しては、人は怒り、何らかの方法をとろうとするから、落ち込んではいられなくなる。それは戦いである。戦いには勝たなくてはいけない。少なくとも勝てるように努力しなくてはいけない。落ち込んでいる暇などないのである。
しかし、運命のいたずらによって陥った不運に対しては、人はちょっと弱くなる。先の彼女の例をあげると、恋人にふられたことは何かの原因があったのだろうから、別に運命とも言えないが、銭湯ですべって転んだのは運が悪かったせいだろうし、また、留守中、部屋に泥棒に入られたのもこれまた、運が悪かったとしか言いようがない。
そりゃあ、泥棒に怒りをぶつけてもいいが、この場合、泥チャンにとってみれば、彼女の部屋を選んだのは、彼女個人に悪意があったからではなく、泥チャン本人の都合によるものだったのだ。泥チャンを怨《うら》み、怒りをぶつけてみても、最終的には救われないのである。
となると、これはもう、わが運命を呪い、怨み、酒でも飲んでふてくされながら寝てしまうしかないわけだ。
私が弱いのはこの「運の悪さ」である。運が悪ければ悪いほど、頑張ってもりもりと逞《たくま》しく美しくなっていく人もいるが、私はそうではない。弱い。まったく情けなくなるほど弱い。その代わり、怒りの対象が明らかな場合は、図々しくて強いのだけど……。
今年のこの運の悪さにとどめをさすようなことがこの間起こった。某編集者と酒を飲みながら「今年は胃[#「胃」に傍点]を悪くして病院通いだったのよ」と言ったところ、彼は何を思ったか「痔[#「痔」に傍点]を悪くして」と聞き違えた。以後、会う人ごとに「刺激物と痔《じ》との関係」なんてのを大真面目に講釈されたりなんかして、どうも話がおかしい、と気づいた時はもう、あとの祭り。んもう! どうとでも言ってよ!