元来、疑い深い性格だが、たった一度だけ「詐欺」に遭ったことがある。
学生時代、住んでいた四畳半ひと間のアパートに化粧品の訪問販売員(聞いたこともない化粧品会社だったけど)と名乗る男が押しかけてきた。パック剤だの乳液だの特製オイルだのがワンセットになっていて五万円。お買い得だから買え、と言う。
五万と言えば、当時の大金。そんな金はない、と言っても「お父さんに頼めばいい」と引き下がる様子がない。いくら昼間といえど、こちらは女の独り暮らし。怖さも手伝って、契約してしまった。
男はその場で乳液とローションの二本をくれたが、「今持っている商品は見本だから渡すわけにはいかない。残りの商品は後日、会社のほうから郵送させる」という。私は親に電話し、嘘《うそ》八百並べて五万の金を送金してもらい、約束の日に再び訪れて来た男に手渡した。
ところが待てど暮らせど、残りの化粧品セットが届かない。これはもしかするとヤラレタか、と思って化粧品会社に電話した。会社側は、そんな訪問販売員はうちにはいない、と言う。泣いてもわめいても後の祭り。レッキとした詐欺であった。
それ以降、路上でミシンのセールスマンや何やら、いかがわしそうな連中に声をかけられても、最悪にいやな顔をして黙って通り過ぎることにしているし、誰かが家の玄関チャイムを鳴らそうものなら、ドアスコープで確認。ちょっとでも不審な奴だと中年のヒステリックなオバサン的不愉快な声を張り上げて「忙しいから帰ってください」と言うことにしている。
だいたい私がいやな顔をしたり、いやな声を出したりすると、人の倍以上、いやな感じを人に与えるらしくて、友達にも「よくそんなに冷たい態度がとれるわね。相手はタカがセールスマンじゃないの」と言われるのだが、仕方がない。
我が身を護るためには、冷酷になるべき瞬間があるものなのだ。
で、こういうやり方で「詐欺」を警戒しているから、ちょっとやそっとじゃだまされない、という自信があるのだが、先日、聞いた話には自信がぐらついた。
その人……仮にAさんとしておこう……は超有名大学を出たインテリ。エリートコースを歩くことを自ら拒否して、企画宣伝のためのユニークなプロダクションを設立した。Aさんが厳選してきたスタッフは揃《そろ》いも揃ってキレ者ばかり。会社は安定成長し、落ち着いた。
そのAさんを会社設立当初から陰になり日なたになり支えてきたのは、Bという若い男。ひょんなことから友人に紹介されて知り合ったというBは、慶応大学出身の若く、スタミナのある、しかも忠実な部下だった。Aさんは数年間、Bを従えながら仕事をしてきて、これほど信頼できる男はいない、と判断した。
口はかたい、頭の回転がいい、Aさんに絶対忠実で、しかも適切なアドバイスもしてくれる、他人に好かれる、人柄がいい……。ついにAさんはBに会社の経理を全面的に任せた。Bはそれに応えた。
それから一年後の或る日、会社の女性スタッフから緊急の電話がAさんの自宅に入った。金庫にある証券類が全部なくなっていて、経理の帳簿が大幅にごまかされている、という。
驚いたAさんが駆けつけ、調べてみると、損害額は数千万円にのぼっており、行方をくらましたBは慶応出身でもなんでもない、地方の高校中退者で、家庭環境から出生まで、何もかもが嘘《うそ》であったことが判明した。
警察に届けたが、それから一年たってもいまだにBの行方はおろか、Bがいったい何者であったのか、わかっていない、という。
「ホンモノの詐欺師の怖さと面白さを知りましたよ」とAさんは初めのうちこそ腹をたて、怒り狂い、自分を責めたが、次第にBの腕の見事さに敬服するようになった、と言った。これぞホンモノの詐欺。お高くとまった大学出のインテリをせせら笑い、まんまとごまかす腕の凄さ。しかも長期計画で……。
「だまされているとわかってあなたに惚《ほ》れた」という演歌の歌詞があるが、詐欺師の中には人を引きつけてやまない何かがある。彼等は孤独で冷静だ。その徹底した孤独な仮面に対抗できるだけの仮面をつけた人間でない限り、我々は常に詐欺に遭う可能性を持っているのである。