先日、「新吾のお待ちどおさま」というテレビ番組で、「究極の美男子ベストテン」の集計発表をやっていた。
視聴者が選んだベストテンである。現代女性の「美的感覚」が伺われて、これがまあ、実に楽しいものであった。見なかった人のために、結果をちょっと書いておくと……
一位 田村正和。
二位 郷ひろみ。
三位 京本政樹。
四位以下はちょっと忘れてしまって順不同になるが、長谷川一夫、杉良太郎、五木ひろし、上原謙、里見浩太朗……らの名前が上がっていた。
選ぶ側の年代が多岐に渡っていたせいか、選ばれる側の年代も多岐に渡っていて、なかなか説得力があるではないか。郷ひろみや田村正和ら、現代に活躍している男たちは別にして、古きよき時代の美男子というのは、映画やドラマの中でまさに究極の美男子を演じていたのだ。古い映画ファンたちにとってみれば、永遠の美男子であり続けるのだろう。
いまや、アデランスの宣伝でさりげなく御みずからの頭を電波にのせておられる上原謙も、かつては美男子以外の役柄など考えられない人だったし、長谷川一夫ともなると、私の母などミーハー的に目をとろんとさせ、近所の肉屋に長谷川一夫に似た店員がいた時なんか、毎日せっせと肉を買いに通っていたものだ。
しかしそれにしても、美しいものを見るというのは、男女を問わず、気分のいいことに違いない。時々、六本木などを歩いていて、美しい男優とすれ違ったり、偶然、飲み屋で見かけたりすることがあるが、そんな時、やっぱり惚《ほ》れ惚れと見入ってしまう。
これが女優の場合だと、「あら、この人、案外背が低いんだ」とか「なんだ。着てるものの趣味があんまりよくない」とか「性格が悪そう」とか、思わず相手の美しさへの妬《ねた》みをこめた感想を吐露し、自分の性格の悪さにうんざりするが、男優の場合は違う。素直に憧れのまなざしを投げたりして……。
一度、赤坂のホテルの駐車場で、深夜、颯爽《さつそう》と現れた寺尾聡とばったり会ったことがあった。顔はいまひとつの人だが、そのスマートさといったら! しばし、惚れ惚れと後ろ姿を眺め、一緒にいた連れの男に呆れられたし、六本木で田村亮を見かけた時は、偶然、目が合ったのをいいことに視線を外さず、迷惑そうな顔をされてしまった。オバサングルーピーか、と思われたかもしれない。
男女の別なく、美しさというものは一種の魔力なのであろう。昔の映画になるが、『野良犬』という黒沢監督の映画で三船敏郎が画面に登場するたびに、私など自分が女であることを痛感させられたものだ。不精|髭《ひげ》、垢《あか》、泥、汗……男の臭さと汚さをまといつつ、あの方はまるごと男だった。言葉を失うほどのまるごとの男、というのは現実にはなかなかお目にかかれない。
では、そうした「まるごとの男」や「見惚《みと》れるような男」を恋人に持ちたいか、といったら私はノーである。関わりたいとは思わない。美しいものは皆で鑑賞すべきである。鑑賞して、個人個人、幻想に浸り、夢を描いているのがいいと思うのである。
だいたい、美しい男とベッドをともにするなどと考えただけで幻想がさめる。美しい男がパンツを脱いだりはいたりする姿を見たいとは思わない。「腹減った」とか「便所に行ってくる」とかいった日常的なセリフを聞きたいとは思わない。美しい男の脱いだ靴下が臭かったりしたら、もうその場で逃げ出したくなるに決まっている。
要するに私は、美しい男がテレビや映画の画面の中で現実にはあり得ないような美しい男っぽさを演じてくれているのをビールでも飲みながら「いいわぁ」などとぼんやり見ているのが好きなのである。
それにつけても、最近の男たち、美しい男が少なくなった。原宿あたりを歩いていると、皆、同じ顔に見えてくる。ダブダブの黒っぽいコートに昔ふうの黒ぶちメガネ、ヘアスタイルまで似たりよったり、セクシーな感じをわざと殺すのはいいにしても、あのプラスチックみたいな乾いた感じはどうも……ね。汗くさいミフネみたいな男がいい、と思ってしまうのは、やはり年齢が少々、かさんでいるからでしょうか。