男性編集者の中には、「女流作家の担当はなるべくならやりたくない」とおっしゃる人がとても多い。
むろん、これは但し書きつきで、作家が「若く」て「美人」の場合は例外である……という世の常を地でいくわけだが、それも初めのうちだけ。「若く」て「美人」でも、しばらく担当していると、いろいろな理不尽な御発言が鼻につき、「テメエ、コノ野郎!」と下品なセリフが喉《のど》まで出かかるケースが多くなってくるのだそうな。
こんな具合だから、「若くなく」て「美人ではない」女流の場合は、初めからお役目御免をしたくなるらしい。
無理難題をふっかけないでよ、誰だって年をとれば「若くなく」て「美人ではなく」なるじゃないの、と言いたいところだが、かく言う私も、一応、「女流」のはしくれ。こういった編集者諸氏の発言はひどく気にかかるところである。
女であるというだけで、担当を敬遠されたりしていたら、書いた小説が本にならずに、喰いっぱぐれてしまう。かと言って女の武器を使って「ねェ、あたしの御本、作ってェ」などとスカートの裾《すそ》を十センチたくし上げながら、迫ってみせる勇気もない。
あらかじめ、それなりの権力をもっている女流ならば、それはそれで偉そうな発言をしても表向きは許されるが、私ごとき権力も何もない臆病《おくびよう》作家が真似をして偉そうにふるまってみたところで、「ケッ」とそっぽを向かれてしまうのが関の山である。
出版界に限らず、考えてみると、こうした仕事上の苦労は女の場合、つきもののような気がする。
若くして亡くなった女優の夏目雅子と仕事を介して懇意にしていた某氏は、彼女が大活躍していたころ、口癖のように「ありゃあ、所詮《しよせん》、お嬢さん芸だ」と言っていた。むろん、愛情をこめてそう言っていたのであることは確かだったが、その「お嬢さん芸」という言い方は、男社会の揺るがぬ体質を表現したものとして、今でも強く印象に残っている。
今の社会で、女がどれほど成功を勝ち得ようと、努力をし、立派な足跡を残そうと、男たちのそれを見つめる目には、どこか「所詮、お嬢さん芸だ」といった見方が根強くあるのではないか。
私の友人知人には、社会的にそれぞれの立場で精力的に仕事をこなしている人が多いのだが、彼女たち共通の悩みは「男たちはどこまで本気で私たちを評価しているか」という猜疑心《さいぎしん》のようだ。
ビジネスとして当然のことを発言すると、「言い方がきつくて生意気」「ギスギスして可愛げがない」などと言われ、そう言われたくないがために、優しく物腰も柔らかく接すると、肝心かなめの時に都合よく無視される。頑張りを過剰に見せると、「潤いに欠ける」と言われ、頑張りを見せないと「所詮、女は」と言われる。
成功すると「女とは競争したくない」と言ってニヤニヤ笑いながら逃げる男がいるし、成功しなければしないで、「女は男と違って一生を仕事に生きるわけではないから、無理しないでいいよ」とオトーサンのような顔で慰めてくる男もいる。
いったい全体、どうすりゃいいのよ、というのが、女たちの隠された声だと思うのだが、これはまさしく、女の仕事=お嬢さん芸……という図式が世にまかり通っているせいではないだろうか。
ではこの「お嬢さん芸」という見方が現れるのは何故なのか。
男たちは、女と同じ土俵で勝負することを好まない。社会は男にとって戦場であり、女とドンパチ争うのは、子供相手に機関銃をぶっ放すようなもので、勝負したことにならない、というのがまずひとつ。
また、どうにも変えがたい女特有の性格、表現方法というものがあって、どうもそれが男のやり方と一致しない、だから女と勝負するのは面白くないのだ、という見方もある。
それに、他の女なら男と勝負してくれたっていいが、自分の妻や恋人がそんなことをするのは許せない、という単純な独占欲からくるもの……など様々だろう。
まあ、いずれにしても、男たちの女を見る目には、一朝一夕には変えがたい根深い偏見がある。偏見は変わらないのに、一方で女たちがどんどん仕事を持ち始めているわけで、ここはひとつ、過渡期だと割り切って、私たちが黙って仕事を続けていくしか治療の方法はないように思えるのであります。