スポーツ観戦が、結構好きである。ゲームの面白さはもちろんのこと、試合中に怪我をした連中の凄い回復力を見るのが、痛快だからである。
だから、ひどい話だが、プロ野球でも誰かがデッドボールを受けはしないか、と心待ちにする。ひとたび、デッドボールシーンがあると、もう大変。テレビに身を乗り出して「わあ、痛そう。わあ、大変」などと、ひとりわめきちらす。
そして、選手が痛みをこらえてすっくと起き上がり、何事もなかったように歩き出すのを見て、スカーッとした気分を味わうのだ。
こんな調子であるから、やわなスポーツよりも、激しいスポーツ……怪我や死と隣り合わせの肉弾相撃つスポーツには目がない。
ことにヘビー級のボクシング。これは興奮します。この間、放送された世界チャンピオンのタイソンの試合なんかは、もう、手に汗握り、第八ラウンドでタイソンがKO勝ち(相手はほとんど死んだように伸びていたが)になった時は、今すぐアメリカに飛んで行ってキスしてあげたくなってしまった。
あの鋼鉄のような筋肉に囲まれた彼の身体は、セクシーとかエロティックとか美しい、とかいう次元を超えて、生ける戦闘機そのものだ。戦闘機を相手に闘うなんて、対戦相手も相当な根性である。これぞ、まさに死と隣り合わせになったスポーツでなくて何であろう。
あとはやはりラグビーですね。ゲームルールなど、ほとんどわからないのだが、見ていて楽しいのは、脳しんとうか何かをおこしてぶっ倒れた男たちに、大きなヤカンの水をぶっかけるシーン。おかしなことに水をぶっかけられると、それまで死んだようになっていた男たちは、みるみるうちに甦《よみがえ》る。あれは見ていて本当に痛快である。
肉体が訓練によって一種の機械のようになっている彼らの姿は、感動的だ。一回、脳しんとうでもおこそうものなら、三日三晩、ベッドにもぐりこんで、お粥《かゆ》でもすすっているであろう、ひ弱な私のことを思うと、別世界。そこがまた新たな感動を呼びおこすのである。
言いたくはないが、私はひどい運動音痴。小学校の時の体育の成績が、五段階評価で「3」以上に上がったことがないし、「2」だったことも何度かある。
それに、私のもっとも恥ずかしい記録は、大学に入った時の体力測定で、五十メートルを十秒かかって走ったこと。百メートルではない。五十メートルを十秒なのだ。当然、クラスで最下位だった。
まだ十八か十九の、もっとも体力があったころの成績がそうなのだから、今もし測定したとしたら、五十メートルを二十秒かかって走るのかもしれない。何をかいわんや、である。
決して運動神経がないわけではない。テニスだって卓球だって、まあまあ人並みにはプレイできる。水泳だって、まったくのカナヅチではないから、足が底につくような海やプールでなら、なんとか背泳ぎで二十五メートルは泳げる(クロールは駄目なのだ。息つぎが出来ないから。それに何故か、平泳ぎも駄目。一生懸命、水を掻《か》いても、進まないのである)。
ごく稀《まれ》に、気が狂ったようにして突然、ジョギングをやってみようと思いたつことがあるが、そうした時でも二キロから三キロまでなら、わりと楽に走ることができる。運動能力がゼロというわけではないらしい。
では何が私のスポーツに対する不器用さの原因になっているかと言えば、それは明らかに「恐怖心」である。
恐怖心……自分の肉体が傷つき、死と隣り合わせになりはしないか、という想像力が、この厄介な感情を生み出す。
たとえばスキーは、足の骨を折りそうで怖いし、登山は崖から滑り落ちそうで怖い。スキューバダイビングなんて、もっての外。海中でウツボにでも出会ったら、私などパニックを起こして、たちまち酸素を使い切ってしまうに決まっている。
バレーボールは突き指が怖いし(もう、こうなると馬鹿丸出しだ)、器械体操は捻挫《ねんざ》が怖い。昔、テニスをやり始めたころボールを打ったと思った途端、打ったのは自分の脛《すね》で、しばらく歩けなくなったこともあった。
この異常な恐怖心、早く直そうと努力した時期もあったが、結局は失敗に終わっている。今ではもう、諦めの心境で、だからこそ、他人が「死と隣り合わせ」になって競技するスポーツを見ることにより、満足するのだ。ほとんどサディストではないか、と時折、怖くなることもあるのだけど。