ニッポンはすごい国である。偉い。大したものだと思う。
あれだけ敗戦の痛手を背負いながら、あれよあれよという間に急成長。今や、トーキョーは世界に冠たる巨大都市。ソニー、ホンダ、シセイドウともなると、民族を越えて、人類の垂涎《すいえん》を誘い、医薬品、ファッション、果ては警察捜査に至るまで、そのセンスと技術の差は他国の追随を許さない。
いや、まったく、大した国である。これはひとえに、ニッポン人の性格気質によるものだろう。
しつこい、粘り強い、負けない、勝つまで退かない、内気なくせに好奇心|旺盛《おうせい》……こうしたニッポン人の気質を称して「ニッポンの台所にいるゴキブリに似ている」と言った知り合いのガイジンがいたが、言い得て妙。
比喩《ひゆ》の良し悪しは別にして、なかなか的確な表現だと思った。
外国の観光旅行コースには、ニッポン人があふれている。そしてニッポン人はいつ見ても元気である。外人たちが、バカンスでのんびり海辺で昼寝をしている時でも、ニッポン人たちは、カメラ片手に隅々まで歩き回っている。疲れを知らず、好奇心と生命力にあふれているのである。
そんなニッポン人の中に、最近になってようやく�国際化�の波が広まってきた。ニッポンはすでに大国なのだ、国民的レベルで国際人にならねばならない……とするこの動きの趣旨はもっともなこと。
でも、実情を見ていると、国際化までの道程は険しいな、と思わされることが度々。
まず語学。私などもそうなのだが、まだまだニッポン人の語学に対するセンスは磨かれていない。そう。語学というのは、能力の問題ではない。センスがあるかどうか、なのだ。
この間、スイスでホームステイしている日本の女子大生たちを紹介したテレビ番組を見た。
ホームステイ先のご主人が、簡単な英語で「あなたがこの国《スイス》で短期留学をしようと決めたのは何故ですか」と聞いた。
女子大生たちは、一瞬、すごく戸惑った表情を見せ、あげくの果てに「スイスはきれいだから」と答えていた。
言葉がなかなか出てこないのは、私も同じだからよくわかる。でも、これではまるで小学生の返答だ。何故、自分がこの国を選んだのか、よくわからない、わからないままに来てしまった……それだからこそ、答え方が幼稚になるのだろう。
問題は語学能力ではない。日頃、ものを考えるという習慣を持たないこと、それが問題なのである。
一度、飛行機の中で隣どうしになったフランス人の十九歳の男の子は、モスクワからパリに着くまで、日本という国に対する自分の考え方、捉《とら》え方を喋《しやべ》りまくっていた。
疲れていたこちらは、へとへとになってしまったが、あのエネルギーには感動した。今の十九歳の日本の男の子が、見知らぬガイジン相手にその国についての持論を四時間、喋り続けるなんてことがあるだろうか。
これすべて、幼いころからものを考える試練、意見を述べるという試練を受けてきたかどうか、という問題。一朝一夕には、真似できないのでありましょう。
もうひとつ言えば、�国際化�というのは、ただ表向きのいいところだけ、カッコいいところだけを受け継ぐことだと考えている人がいるようだが、それは大きな誤解だと思う。
犯罪と麻薬汚染と差別と貧困……それらは、どうしようもなく外国の都市に根づいてしまっているものだが、そうしたものに目をそむけて、�国際化�だなんて笑っちゃうよ、という感じもする。
最近では、国際化すると外国人犯罪者が多くなるから、外人入国を制限したほうがいい、なんていう意見も現れているが、それじゃあ、まるで江戸時代の鎖国と同じ。
ホント、ニッポン人というのは発想が極端だ。
様々な人種が出入りすれば、価値観が揺さぶられることになる。それを恐れるのは、かたくなさの現れでしかない。
さすがに現代では、ガイジンなど見たことがない、と言う人はいなくなったが、それでも、外人に対する過度の不信感、コンプレックスを持っている人は結構、いる。
片方で、脳天気に海外旅行で散財し、もう片方で、自分の身の回りから危ないものを遠ざけようだなんて、ムシがよすぎるというもの。
あれやこれやで、自分がニッポン人でありながら、ニッポン人種は、世にも不思議な民族だと痛感します。