ふと、周囲を見渡してみると、�好きな人�というのは、意外に少なかったりするものである。
なんとなく腐れ縁で関わりを持ってきたけど、どうもね、あの人とはウマが合わないのよ、と思う相手もいれば、あの人、感じはいいけど、どっか生きてる世界が違うのよねえ、と思う相手もいる。
年に数えるほどしか会わないのに、会うたびにますます、好きになってしまう相手もいれば、月に何度も会っているのに、ちっとも親しくなれない、という相手だっている。
別に友人と呼べる人でなくても、淡い関係を保つ人の中に、すごく波長の合う人と、そうでない人がいる。そして、寂しいかな、�すごく波長の合う人�というのは、実はとってもとっても、少ないような気がする。
昔、小学校のころ、何かあるとすぐに友達に「絶交状」を送りつける女の子がいた。私も送られて、閉口したことがあるけれど、子供時代はそんなふうに堂々と�絶交�できる分だけ、案外、幸せだったんじゃないか、とも思える。
いい年をした大人が、知人友人にことあるごとに「絶交状」を送りつけ、あなたのことが嫌いになりました、よって今後のおつきあいはやめさせていただきます、と宣言などしたら、エライことになる。トラブルが大きくなるばかりか、差し出し人は知能程度を疑われて、ひたすら笑い者になるのがオチだ。
オトナは、やはり、一応誰にでもわけへだてなく、お愛想笑いをふりまくことを要求される。そこが辛いところである。
辛くて、つい愚痴も出る。それに、イライラした頭で考えていくと、ああ、どいつもこいつも、みんな、キライだ! などということになりかねない。仕事関係者のAも、友人のBも、恋人も亭主も、親兄弟も、角の煙草屋のばあさんも、みんなキライ。私はこれを「みんなキライ症候群」と呼んでいる。
この「みんなキライ症候群」に陥る人は、幼児的性格の人間に多く、根が真面目な人、愛情に飢えている人ほどなりやすい。時として周囲の人間が手のつけようもなくなるほど、症状が悪化することもある。が、まあ、大した症状ではないから、誰かがとっても優しい電話をかけてくれたり、喧嘩した恋人と仲直りしたり、仕事でほめられたりするだけで、たちまち治る。
単純と言えば単純だが、その分だけ、人の孤独、不安を垣間見《かいまみ》る感じもする。現代は、多くの人が「みんなキライ症候群」に陥っているのではないか、とも思うのである。
私のことを言えば、私はともかく、正直な人が好きである。男も女も、正直であるかどうか、が私にとってつきあう上での基準になる。
たとえば、自分の意見を正直に言える、自分の感じたことを正直に言える、それが、どれほどみっともないことでも、どれほど世間の常識からはずれていても、屈託なく自分の言葉で語れる人というのが好きだ。
正直に話してくれる人の前では、こちらもいっぺんに殻がとれる。いいつき合いがそこに生まれる。
ところが、この正直さというのを持ち合わせている人は意外に少ない。少ないというよりも、年齢を増すに従って、正直さの表現が下手になっている人が増えるから厄介だ。
若いうちはいい。たいていの人は、みんな正直だ。自分の考えていること、体験したこと、感じたこと……それらを正直に喋《しやべ》ることができる。心に社会的な垢《あか》がついていないからだ。気取ったり、世間体を気にして嘘《うそ》をついたりすることは少ない。
ところが、年をとってくると、みんな変わってくる。よく言えば、気づかう。悪く言えば、水くさい。もっと悪く言えば、自意識過剰で自己保全に走る。
ちっとも問題のある過去ではないのに、必要以上に自分の過去を隠している人とか、世間の意見と同じことしか言わない人とか、ただヘラヘラ愛想笑いしてばかりで、自分の考えを述べずにいるとか……いるでしょう。私はそういう不正直な人とは、やっぱりおつきあいできない。
人と人との関わりというのは、どこかでどうしようもなく互いの深部を抉《えぐ》ってしまうものだ。その抉り出し作業がなければ、関係は深まらないし、続きもしない。
抉り出されたくないと思う人は、人とは淡く表面的につきあっていればいいから問題ない。だが、抉り出されてもいいけど、その抉り出し方が気にいらない、と文句を言う人が「みんなキライ症候群」に陥るわけだ。みんなキライでも、誰かに愛されたいはずで、それならば、正直に人と関わっていくしかない。
世の中にたった一人、ウマの合う人がいれば上等ではないか。