別に私は中年の殿方たちが嫌いなのではない。そりゃあ、四十代五十代サラリーマン諸氏を見ていると、疲れがたまった顔、出っ張ったお腹、濁った目……など、決して美しくないものも見えてしまうわけだが、だからといって、そんな些細《ささい》な容貌の衰えをいちいち指摘して、あげつらおうだなんて、我が身を顧みないようなことをする気はない。
四十代というと、子供たちの教育費がべらぼうにかかり始め、まして社内ではストレスの多い中間管理職の身。また五十代にもなれば、男の最後のあがきとも言える妙なガンバリズムが求められる一方、家庭に帰れば意思疎通を欠いた娘や息子にスネをかじられるだけ。
どっちを向いても疲れるばかりの毎日でいらっしゃることも充分、承知しているのだから、そのうえ、無理難題をふっかけて、いじめようなどという気はあるわけもない。
私はただ、あの人たちに共通する一種の�センスのなさ�を言いたいだけなのである。
四十代五十代はまだまだ男としての現役。若い女性を見て、目の色を変えるな、などと堅苦しいことを言う気はないが、若い女性を相手にすると、何故、ああもくだらない、言い古された冗談を連発なさるのであろうか。
友人の結婚式に招かれた時、スピーチに立った四十代後半の紳士がマイク片手に言いました。
「こんなに美しい新婦に、毎朝、味噌汁《みそしる》を作ってもらうなんて、男として羨ましい限りです。私ももう一度、結婚したいものですな。わっはっは」
結婚したからといって、毎朝、フリルのエプロンをつけ、味噌汁を作るようなことをいまどきの若い女性がするわけがない。多分、この紳士はそのくらいのことは知っておられたのであろうが、思わず口をついて出てしまう冗談が「味噌汁」では、あまりに情けない。シラケるあまり、耳を塞《ふさ》ぎたくなる。
それから飲み屋のカウンターなどで、若い女の子たちを口説く紳士たち。先日、二十一歳の女性に愚痴をこぼされたが、「なんで、あの人たちって、わざとらしく光ゲンジの歌の話をしたり、そうかと思えば、自分の世代の自慢話ばかりするんでしょう。それにね、こっちがお愛想で笑っているのにも気づかないで、すぐにアブナイ話をするんですよ。ラブホテルの社会見学に行かない? とか。バッカみたい」……などと、彼女たちが蔭で吐き捨てるように言っていることを知らないのでしょうか。
ウィットに欠けるものだから、たとえば話題がエロティックなものになると、露骨にいやらしくなるばかりで、収拾がつかなくなる。あるいはまた、男と女の問題を深く真面目に考えたことがないものだから、いきおい、女と見ると「口説いてモノにする」というあさましい根性が丸見えになってしまう。
そればかりではない。思いあがった発言を平気でなさり、社内の若いOLを集めては、先週、銀座で自分がいかにモテたかを披露する。
もう、聞いていると、興味は女、女、女……これしかない。
若い男の子が女に興味を持ち、まっしぐらにそのことばかり考えているのなら話はわかるが、とっくに様々な経験をお済ませになっておられるであろう紳士諸氏が、目をギラつかせて、何のセンスもなく女の話をするのは、見ていておぞましいものがある。
若い男と違って困るのは、あの方たちが、それなりに社会的な地位を持ってしまっていることである。地位や財力(それも大したことのないものがほとんどなんだけど)を振りかざして、迫って来たりすると、これはもう、迫られたほうはストレートパンチを食らわせて逃げるか、さもなくば利用させていただくか、ふたつにひとつの選択を一瞬のうちに求められるわけだ。
彼らにユーモアやウィットがない分だけ、関係の曖昧《あいまい》なところで楽しさや面白みが味わえない。逃げるか、利用するか。それしか選択の余地がないのだ。
あの方たちがそんな具合だから、ますます若い世代の女性たちが幼児化する。いつまでたっても、若さだけが特権とばかりに、上の世代に甘え、手こずらせ、尻|拭《ぬぐ》いさせる、という寸法だ。
日本にオトナの恋愛が少ないのはこういう図式があるせいだとも思う。のさばっているギャルと、センスのない中年男とでは、恋など生まれるわけがない。かといって若い男の子たちはどうもひ弱……とくれば、これはもう、恋愛欠乏時代に突入しているとしか思えないのだ。