そりゃあ、若い女性というものはロマンティックなことが大好きです。恋人やボーイフレンド、それにあわよくば……と狙いを定めているあの男、この男に、二月十四日という特別の日を利用して、チョコレートを贈りたくなるのも当然と言えます。
それにひとたび、誰かに贈ろうと決めると、「ああ、A君にも、B君にも贈っておこうかな。きっと喜ぶだろうな」などと、勝手に想像して、三たび四たびと財布の紐《ひも》をゆるめることになるのも、理解できます。第一、チョコレートなどというシロモノは、決して高いものではありません。五百円……いえ三百円も出せば、可愛い箱が手に入ります。三百円で男たちの気を引くことができるのなら、この世にこれほど安あがりのものはないでしょう。
両手いっぱいに買いこんだところで、買おうと思っていた春のスーツを諦《あきら》める必要もないわけです。手頃で、ロマンティックで、洒落《しやれ》ていて、おまけにほのかな恋が生まれる可能性だってある……とくれば、毎年二月に全国のワンレン、ボディコンのお嬢様がたが、競ってデパートや洋菓子店に駆けつけ、目の色変えてチョコレートを買いあさるのも無理はない、と言うべきかもしれません。
しかし、です。ニッポンはどこか狂ってる、と思うのは私だけでしょうか。
先日……二月十三日のことでした。某地下鉄の某駅の、お嬢様がたが日頃からえらくおしゃれしてお歩きになっている界隈《かいわい》に、汚いズックを履《は》き、いつもの「お買物用ルック」で夕餉《ゆうげ》の買物に出かけた私は、ふと「うちのツレアイにもチョコレートを買ってやるかな」などと思い、軽い気持ちで某洋菓子店に入りました。
そして店先で唖然《あぜん》として立ち止まりました。どこを向いても女、女、女……。チョコレートのパッケージが宙を飛び、レジ係の男性は長蛇の列のお嬢様がたを捌《さば》いていくのに汗だくです。黄色い歓声。熱気。まるでディスコの会場のようだった、と言っても過言ではありません。
仕方なく私は次なる店に足を向けました。そこは高級スーパーマーケットで、売場に大がかりなバレンタインコーナーが設置されていたのを思い出したからです。
ところが、どうしたことでしょう。店内に足を入れた途端、とぐろを巻くように連なっているお嬢様がたの列が私の行く手を阻みました。一瞬、かつてのオイルショックの際、主婦たちがこぞってトイレットペーパーを買いだめた風景を思い出した私は、ぞっとして思わず目をこすりました。
チョコレートコーナーには、わずか三、四個のチョコレートが残っているだけです。そのわずか三、四個のチョコレートをためつすがめつ手に取って、真剣な顔であれこれ思案中のお嬢様。他人のことなんかどうだっていいわ、私はこれを手に入れたんだから、と言わんばかりに満足げにひとり微笑んでいるお嬢様。ペチャクチャと誰にどれを贈るか、相談し合っているお嬢様……。
私のそばで立ちすくみ、同じように行き手を阻まれた外人の若い男性二人が、「クレイジー!」とつぶやき、肩をすくめ、眉をひそめたのを私は見逃しませんでした。その二人は嘆かわしい顔つきで、お嬢様がたの群れをかきわけ、どこかに消えていきました。
結局、私はチョコレートを買うのをやめました。そうです。私が目撃したあの正気の沙汰ではないお嬢様がたの集団は、私に嫌悪をもたらしたのです。あれは失礼ながら、バレンタイン商戦にのって、何の考えもなしにチョコレートに群がるハイエナそのものでした。集団ヒステリーとも言うべきものだったかもしれません。
どうしてささやかなプレゼントをするのに、他人と同じことをしなければならないのか、私には理解できません。おそらく一生、理解できないと思います。見栄もプライドもないのでしょうか。自分が他人と違うことをするのが怖いのでしょうか。世間の決まりごとを無視して生きるカッコよさはないのでしょうか。
単なる遊びじゃないの、と言われてしまえばそれまでです。でも、もし私が男だったら、自分の彼女にはあんな馬鹿なことをしてほしくない、と願うでしょう。世間の騒ぎにそっぽを向き、自分たちだけで命名した「サラダ記念日」のような時を選んでプレゼントを贈ってくれる女性をいとおしく思うでしょう。
ただし世の中には、チョコレートをもらえなかったからと言って、本気でひがむ男もいるそうです。となると、どっちもどっち、と言うべきかもしれませんが。