たまたま入ったスナックで、初対面の若い女性と話がはずんだ。彼女は父親の仕事の関係上、小学校二年のころからドイツに行き、中学を終えるまであちらで生活をしてきたのだという。
よく言われることだが、ドイツ人には親日家が多い。性格的にもドイツ人と日本人とは似ているところがある。ヨーロッパを回った経験のある友人の大半が「ドイツが一番、気分のいい国だった」と言っていたことを思い出した私は、聞いてみた。
「さぞかし、住み心地はよかったんでしょうねえ」
すると彼女は、残念そうに首を横に振る。「そんなことないです。ドイツ人って生真面目すぎて……」
「そうなの? でも日本人も相当、生真面目な国民だから、案外、気が合ったんじゃない?」
「とーんでもない。息が詰まりそうになるんですよ、あそこは。なんでもかんでも、キチンとしなくちゃ気がすまない人たちばっかり」
それからはドイツの悪口のオンパレードが始まった。借りていた家の大家さんが、彼女たち一家が留守中、頼みもしないのに家に入って来る。何をしているのか、問いただすと、大家さん曰《いわ》く、「ここはあなたがたに貸していますけど、私の持ち物ですからね。お留守の間に掃除をさせてもらう権利はあります。何か問題がありますか」
理屈からすれば大家の言うことは、別段、間違ってはいない。彼女たち一家は文句も言えずに引き下がったらしい。このことに代表されるように、ドイツ人というのは、すべてにおいて論理的で、理屈に合いさえすれば、日本人が驚くような非常識なことでも平然とやってのけるのだそうだ。
「それがうっとうしくって」と彼女はぼやく。「それに異常なほど清潔好きな国だから、家を汚したりするとすぐに怒られるの。うちだけじゃなかったんですよ。在独日本人たちはみんな、そういう経験をしてました」
「じゃあ、日本に戻った時はほっとしたでしょ」と私。ところが、彼女は「とーんでもない」とまた声を張り上げた。「私、ほんとはまたドイツに帰りたいんです」
「そんなにうっとうしい思いをしたのに?」
「日本はね」と彼女は眉をひそめた。「もっといやな国なの。ドイツのほうがずっと好き」
外国で教育を受け、成長してから日本に戻った、いわゆる海外帰国子女たちの多くは、不思議なほど彼女と同じことを言う。私はこれまで何人かの帰国子女たちから、似たような話を聞いた。皆、外国での生活に比べて日本は便利だ、と口を揃《そろ》える。外国の悪口を並べる子もいる。でも、日本はいやだ、と言うのだ。また元いた国に戻りたい、と言うのだ。
これはいったい何なのだろう。すべてにおいて恵まれているはずの日本。自分が生まれた国。そこに戻った時にまず感じるものが、絶望であったり、嫌悪であったりするのは、何が原因なのだろう。
知り合いに、はたちを少し過ぎた若いハーフの男の子がいる。彼の生まれはパリ。父親が日本人で母親がフランス人である。彼は十九歳になるまでフランスを離れたことはなかったが、このたび、父親の祖国で学ぼうと決意。日本に留学して一年半になる。
彼には日本人の友達はいない。ガールフレンドも皆、日本人ではない。日本人とは、つきあう気がしない、と言う。何故? と聞いた私に、彼は一言、簡潔に答えてくれた。
「日本人にはVie(フランス語で�人生�の意)がなさすぎるから」と。
これなんだなあ、と思ったものだ。Vieのない日本人。そう。日本人には人生がないのかもしれない。老いも若きも常に時間に追われた生活をしている。さもなくば世間や常識を気づかう束縛された生活をしている。本気で愛したり、何かに夢中になったり、逆にひたすらぼんやりしたり、考えたり、透明な孤独感を楽しんだりする精神の余裕、強さがない。小賢しいだけの若い人々。年老いれば、その小賢しさが、ずる賢さに変わっていくだけ。人生と呼べるような、ゆったりした大河の流れのようなものは、どこにも見られない。
「たいていの国にはVieがあるのに」と彼は言った。「どうして日本にはないんでしょう」
海外で暮らした経験を持つ子供たちが、再び海外に行きたがる理由は、どうやらそのへんにあるのかもしれない。