小学校の低学年だったころ、週に一度、ピアノを習いに行っていた。ピアノの先生宅にはいつも、たくさんの絵本が置いてあり、レッスンの順番待ちにその本を眺めているのが楽しみだった。
『ちびくろさんぼ』の絵本を見たのもそのころだ。木のまわりをトラが物凄いスピードで回っているうちに、おいしそうなバターになってしまいました……というくだりが面白くて、何度も繰り返し読んだものだ。黄色いトラが、猛スピードで回転したら、とけてバターになった、なんていう発想は、いくら童話とて、凡人の才によるものではない。子供心にもワクワクするほど楽しく、感動した記憶がある。
その絵本が最近、絶版になったそうだ。黒人差別につながるから、という理由らしい。
それと同時に、カルピスの黒人マークも廃止された。黒人を戯画化して商品に使用するのはいけないそうである。唇がぶ厚くて、顔が黒い人間を絵にしたら、それだけで差別になるというのである。
話は飛ぶが、最近、小学校で運動会の徒競争を廃止しているところが多いそうだ。徒競争では一位から最下位までの順位が明らかにされる。子供たちに人間は皆、平等であるということを教えながら、順位をつけるのはマズイ。だから、一斉に廃止しよう、というものだ。
また、教室で子供たちに挙手させる時、全員、机に頭を伏せて、誰が手を上げているのかわからないようにしている学校もある、と聞く。問題が解けない子は、先生に「わかった人は手を上げて」と言われても挙手できない。挙手できないことによって植えつけられていく被害者意識、被差別意識をなくそうという試みらしい。
ついにここまできたか、と暗澹《あんたん》たる気持ちにさせられる。人類は、差別のない平等な世界を願うあまり、何かとてつもなく愚かな方向に進んで行こうとしているのではないか。
誰しも差別されたくないと思っているし、平等でありたいと願っている。それは当たり前のことだ。だが、当たり前のことを極端に意識して、重箱の隅をつっ突き始めると、ロクなことにはならない。
子供にとって小学校というのは、初めて体験する社会である。そこは、泣いたり戸惑ったりする試練の場所でもある。動物の子供が、親別れして必死に生きていくように、人間の子供も右往左往しながら、それでも立派に成長していくものだと私は思う。
私は徒競争ではいつもビリッかすだった。途中で転んで、みんなに笑われ、ゴールに入る前に泣いたこともある。音楽と国語の成績はよく、その時間は楽しめたが、算数は劣等感にさいなまれた。楽しんでいる時の私は、ある意味で加害者であり、劣等感に苦しんでいる時の私は被害者だった。私は優位に立ったり、劣位に落ちたりしながら、青息吐息で小学校を卒業した。そして社会とはそういうものであること、闘っていくしかないものであることを知ったような気がする。
子供が楽しんで読んでいる童話を「差別になるから」と言って取り上げ、子供が可愛いマークだと信じていた飲料水のマークを消し去り、徒競争を廃止し、手を上げる時に机に頭を伏せさせる……そんな世の中で、子供たちはどうやれば厳しさや不条理と闘っていくことを学べると言うのだろう。�木を見て森を見ない�式に語られる�平等�のスローガンは、子供たちをいたずらに去勢してしまうのではないだろうか。
世界には歴然とした差別構造がある。人種問題だけではない。男女間の差別や成績、学歴による差別、金の有無による差別、美醜の差別……。生きていながら、それらに目をつぶることは事実上、不可能だ。それらを知ることから、人間はあるべき形を求めて努力するようになる。ものごとを深く考えるようになる。感じるようになる。
それなのに、大人は子供たちの目をつぶらせようとしている。何も見なかったことにして育てようとしている。その愚かさを今こそ、知るべきだと私は思う。
どうも日本とアメリカには�是か非か�という極端な物の考え方がはびこり過ぎている気がする。柔軟なものの考え方ができない国民は、いずれ間違いなく極端な方向に走っていく。それは過去の歴史が実証済みだ。
どうせ極端に走るのなら、皆が皆、自分のことだけ考えて生きていればいい。そうすれば世の中には無数の価値観が生まれる。無数の秩序が生まれる。それでいいのである。