わが家の近所に最近、名所ができた。『OPERA』という名のビアレストランである。
え? 何それ、と言う人のためにちょっと説明しておくと、『OPERA』が開店したのは、つい四、五か月ほど前。キューバ大使館の跡地をサントリーが期限つきで借り受け、開業した。売りものはその名の通り、オペラ。そう、オペラを聞きながらビールを飲むのである。
これまでビアガーデンとかビアホールというと、会社帰りのオジサンたちが背広を脱いで、ネクタイゆるめて、枝豆やヤキトリなんかを前に、ジョッキでガブガブやり、流れてる音楽はハワイアンか二十年前のアメリカンポップス……と相場が決まっていたものだ。
ビールとオペラ。この取り合わせの妙に加えて、ここ『OPERA』では、鼻の頭に汗かいて泡が吹きこぼれた大ジョッキを三つも四つも運んで来る、疲れた感じのウェイターはいない。店内を颯爽《さつそう》と歩くのはキリリとした風貌《ふうぼう》のギャルソン。何もかもがスノッブなのである。
その意外性が受けたのか、この店には夕方四時ころから客が並び始める。ひところ、アイスクリーム屋の前に長蛇の列ができたことがあったが、まさしくそれと同じである。開店直前ともなると、人の列が道路にまでせり出してくる。もう、凄まじいのである。
客層は若者中心。全員が、クローゼットの中から選び抜いた一張羅といった感じの服を着て、目いっぱい気取っている。列をなす着飾った連中の前に、これみよがしに外車で乗りつけるカップルがいれば、それをじろりと値踏みするカップルもいる。見ていて飽きない。
むろん、オバサングループもいる。オベントウ買って杉良太郎の公演に行く、なんてのはいまどき流行らない。今のオバサマはやっぱり行列して『OPERA』でビールを飲むのである。
七時ともなると、列はさらにふくれあがる。店内に収容(?)された客の他に、続々と新たな客が到着するからである。七時半、八時……。それでもまだ列は途切れない。そんなに待ってたら、お腹がすくだろうと思われるのだが、皆さん微笑みをたやさずに辛抱強く待っておられる。
私はその列の脇を通り過ぎ、ほぼ毎日、夕食の買物に行く。こちらはスニーカーにジーンズ、Tシャツ姿で、ボサボサ髪、手には財布ひとつ……という買物ルック。頭の中は夕食の献立と書きかけの原稿のことで一杯というありさまで、『OPERA』の脇を通る時はいささかカルチャーショックを受ける。オペラを聞きながらビールを飲むために、遠いところから一時間も二時間もかけてやって来て、そのうえまだ整列を続けるなんていう気力は私にはない。
東京を中心にしてこうした�整列現象�がおこるようになったのは、ここ五、六年のことだと思う。話題の店ができると、話題の店の前に並ぶのが一種のファッションになったわけだ。情報化社会が生んだアホらしい現象とも言えるが、私は、�整列�好きの人間が増えたのは、現代人の自意識がきわだって強くなったせいかもしれない、と思っている。
いや、ホント。現代人は老いも若きも自意識が強くなった。自意識というものは、貧困に喘《あえ》いでいたり、戦争が勃発《ぼつぱつ》したりした時は、影をひそめるものとされている。そりゃあそうだ。そうなったら、自意識どころの騒ぎではなくなる。
だが、世の中が平和になり、暮らしにゆとりができてくると、途端に自意識は強くなってくる。目立ちたい、少しでもカッコよくありたい、皆に羨ましがられたい……そういう意識がムクムクと頭をもたげてくる。
ところが、普通の生活をしている人間は、まず大勢の他人に見られたり、そのセンスを採点されたりすることはない。せっかく着飾っても、電車に乗って街を歩くだけなら、ただの人だ。美的センスを見知らぬ他者にチェックしてもらうためには、同種の人間が集まるような場所に行くのが一番、手っ取り早い。しかも、�整列�していれば、頭の先から足の先まで他者に見てもらえる。自意識はそれによって、多少なりとも緊張し、満足するわけだ。
そんなこんなで�整列�現象がおこったのだろうが、それにしても、あの執念には脱帽する。出不精でメンドくさがり屋で、パーティーでハイヒールをはいて立っているだけでウンザリしてしまう私のようなぐうたら者には、やはり、自宅でパジャマに着替え、茹《ゆ》でたてのエダマメに缶ビール、レンタルビデオ……という暮らしが似合っているようである。