どんな時が一番、幸せか、と聞かれたら、迷うことなく次のように答える。
たとえば、長編小説を書き上げた翌日、一日中、誰とも会う予定がなく、出来れば翌日もスケジュールは特になし、という状態の時で、天候は曇り、もしくは雨がよろしい。ついでに言えば、朝から雪がちらつき始めて、テレビの天気予報で「関東地方に大雪注意報が出ています」などと伝えられ、外はしんしんと冷えこんでいるのに、部屋の中はぬくぬくという状態であれば、さらによし。
冷蔵庫を開ければ、二、三日、買い物に行かなくても充分、おいしい食事が楽しめる材料が揃《そろ》っていて、「ちょっと一口」のためのお菓子や果物もたっぷり。
電話を留守番電話に切り換えて、「ちょっと一口」のお菓子と、必需品の煙草を携え、炬燵《こたつ》、もしくはベッドに直行。
そしておもむろに読みたかった本のページをめくり始める。窓の外は雪。二、三時間たつと、次第に眠くなってくる。活字が揺れ始める。どれ、少しウトウトするか、と読みかけの本に栞《しおり》をはさみ、目を閉じる。
三十分くらいウトウトし、ひょいと再び目を覚ます。欠伸をしながらコーヒーをいれる。また本を開く。雪が強くなっている。雪を見ながら、煙草を吸う。ああ、極楽、極楽、てなものである。
そんな時は、日頃、読みたくても時間がとれなかったディケンズの『荒涼館』全四巻なんてのも、読む気になってくるし、昔読んで、大半忘れてしまったような『ドクトル・ジバゴ』全二巻とか、その他、文芸評論や美術評論、心理学専門書や果ては古典文学にいたるまで、モーレツな読書意欲がわいてくるから不思議なものだ。
本好きの人間にこの話をすると、たいてい「ワカル、ワカル」と身を乗り出してくる。晴耕雨読の生活でもしていない限り、なかなかじっくり本が読めないのが多忙な現代社会。読みたい本ばかりが棚に積まれ、そのまま埃《ほこり》がたまっていくのを見るのは、なんとも虚しいものだ。昔はあんなにたくさん本が読めたのにな、などと暇だったころを懐かしんだりするのも、精神状態によくないわけで、忙しすぎて疲れた時は、やっぱりそれにふさわしい本を選ぶに限る。
私は心身ともに疲れた時は、必ず『クマのプーさん』を読む。子供のころから、この習慣は変わらない。
わが家にはボロボロになった岩波書店刊の初版本と共に、その後、上製本として新たに刊行された『クマのプーさん・プー横丁にたった家』の二冊がある。ボロボロになってしまったほうは、さすがにもう読めないが、上製本のほうは、未だに健在。これほど何度も読み返し、文章を暗記してしまっても、なお、また読みたくなる本を私は他に知らない。
たかが童話だ、として馬鹿にする人もいるが、この『クマのプーさん』を読まずに小説を書いている小説家など、信用しないほうがいい。『クマのプーさん』はすぐれた作家(A・A・ミルン)とすぐれた翻訳家(石井桃子)、それにすぐれた挿絵画家(E・H・シェパード)による、今世紀最大のメルヘンなのである。
『クマのプーさん』が疲れた時のための本だとすると、風邪をひいて熱がある時の本は、猫のマンガの『ホワッツ・マイケル』。これはもう、風邪をひいた時のみならず、二日酔いで気分が悪い時や、いやなことがあってイライラしている時などにも絶大な効果を発揮するスグレモノだ。
今のところ、まだ全六巻しか出ていないが、私は体調が悪い時はたいていこれを読む。繰り返し読んでも全然、飽きない。気持ちがふんわり優しくなり、頭がカラッポになり、ついでに笑いがこみあげてきて、心身ともにくつろいでくる。
他にみつはしちかこの『チッチとサリー』なんて漫画も風邪の時は効き目があるし、ちょっと趣向を変えて、手塚治虫の『ブラック・ジャック』も悪くない。体裁ばかりよくて、中身のない小説を読むよりは遥《はる》かに漫画のほうがタメになることも多いわけだ。
世の中には軽いタッチの本(漫画もふくめて)のことをえらく軽蔑《けいべつ》する人種がいる。最近の若手の作家は、漫画や軽い本ばかり読んで、プルーストやジョイスを読んだことがないのではないか、と怒っている文芸評論家もいる。プルーストやジョイスなんか読まなくてもいい小説は書けるし、何を読もうが、基本的に人の勝手だ。
だいたい、風邪で高熱を発しながら、プルーストを読んでいる人がいたら、やっぱりちょっとブキミではありませんか。