去年の暮れから、漢方薬を飲み始めた。漢方薬といっても、民間の薬局で調合してもらったやつではない。ちゃんとした東洋医学専門の病院で診察を受け、出してもらった本格的な煎《せん》じ薬である。
四年ほど前から、ことあるごとに胃腸の調子が狂っていたのだが、去年はさらに狂いっ放し。夕刊に載っている養命酒の広告を見て、ひとつ飲んでみるか、と思ったり、雑誌や何かで「癌《がん》」という文字を見ると震えあがり、これは癌かもしれぬ、早く遺作となる大傑作を書き残しておかねば……などとつぶやいて周囲を呆れさせたりしていた。
でも、いくらなんでもまだ三十代。老化現象とも思えず、やっぱり、重病に違いないと案じて、おそるおそる病院の門をくぐって各種検査を受けること、通算三回。結果はすべて異常なし。けっこう人並み以上に酒を飲んでいるのに、肝臓は赤ちゃんみたいにキレイだ。なんて言われるオマケつきであった。
となると、これは内臓のビョーキではなく、神経のビョーキということになる。考えてみれば、そりゃあそうだ。作家は内臓よりも先に、神経をやられやすい。理屈から言えば、よほど忙しい時を別にして、作家は基本的に好きなだけ眠ることができる。徹夜して飲んだって、翌日は一日中、寝ていられるから、大して身体には響かない。
身体をあまり動かさないから、食事も消化のいい、栄養バランスのとれたものになる。いやな人間関係もあるにはあるが、会社勤めの人間よりは遥《はる》かにましで、会いたくないヤツには会わずにすませることだってできる。極端に言えば、いい小説を書けばそれでいいわけであり、いい小説書いて、締切を守っていれば、人間関係が悪くなるはずもない。内臓を守るためには、案外、健康的な生活ができるわけだ。
但し、神経だけは別物である。小説誌の締切がある。書下しの締切がある。とりわけ雑誌の締切が神経に響く。中には、一週間や十日くらい遅れたって、最後に印刷所に入って書いちまえばいいのさ、などと言い、実際、それを実行している人もいるが、気の弱い私にはとてもそんなことは出来ない。万が一、それでも書けなかったら、月刊誌に穴をあけることになる。要するに、自分のせいで一つの雑誌の十数ページ分がボツになってしまうのだ。予告を打ってあれば、なおさらのこと。弁解無用の世界。どうして、神経を使わずにいられようか。
締切の次に神経がボロボロになるのは、小説のアイデアが出てこない時である。これは怖い。だってそうでしょう。アイデアなんか、そうそう湧き水のごとく出てくるもんじゃありません。しぼり出し、ひねり出し、最後には頭の中をナイフで切り開き、それでも何も出てこないことだってある。俗に言う�壁�である。
壁にぶちあたったら、何をしたってダメ。物語ひとつ、浮かんできやしない。そうなったら気分転換なんて、子供だましみたいなもの。ひっくりかえっても、転がってもダメ。ダメの連続。
締切は迫る。アイデアは出ない。編集者からは矢の催促。テキも必死だ。生活がかかってる。なだめすかし、持ち上げ、それでもダメとわかると、脅しにかかる。「もうそろそろ、雑誌に穴があきます。お覚悟を」てなもんである。
これで神経がおかしくならないはずはない。そのうえ、運動不足、喫煙、飲酒……とくれば、立派な神経病患者ができあがるという寸法だ。
で、私の場合、仕方なく漢方治療を始めたのだが、結果はまだよくわからない。根本的な治療というのは、仕事をやめることです。なんて医者に言われて、まさか、センセイ、そんなことは不可能です、と答えた限り、どこかで悪循環を断ち切らないといけないのだが、はて、どうしたものか。
この種の「不定愁訴」を訴える人は数多いそうで、作家仲間にも結構いる。総合的に病名をつければ「自律神経失調症」ということになるのだが、締切が近づいたり、根をつめたりすると、心臓が痛み出し、呼吸困難になる人、胃|痙攣《けいれん》をおこす人、発熱する人、食欲をなくす人……と、人によって症状は様々だ。
私は今、そういう人たちを集めて「自律神経友の会」というのを結成している。まだ、定期会合というものはしていないが、会う人ごとにその話をすると、「あ、オレも入会する」「アタシも」というわけで、今後、会員の数はウナギ上りに増えそうな気配。どうせなら、「自律神経を病んでる作家の書くものは、優れた作品が多い」と言われるよう、頑張ってみるとするか。