獣は海上に踊り出た。
宙を泳ぐように翔《かけ》て、それでいながらあきれるほど速い。どういうわけか風を切る感触はしないので、さほどでもない気がするが、背後の夜景が遠ざかるスピードを見れば尋常でない速度なのがわかる。
なにを叫んで訴えても、こたえてくれる者はいなかった。ついには哀願さえしたが、返答はない。
暗い海上のこと、高さを暗示するものは見えないので高度に対する恐怖は薄いが、行方に対する恐怖がある。
獣はまっすぐに沖へ向かった。ケイキを乗せたもう一頭の獣の姿は近くには見えない。ケイキの言葉どおり離れているのだろう。
そろそろと背筋を投げやりな気分が這いあがってきて、陽子はようやく叫ぶことをやめた。あきらめてしまえば、思い出したように四肢を動かして宙を駆ける獣の背は心地よかった。背後から回された女の腕が冷えた身体に温かい。
陽子はためらい、そうしてようやく背後の女に聞いてみる。
「あの……追ってきてる?」
半身をひねるようにして聞くと、女はうなずいた。
「はい。追っ手の妖魔が多数」
女の声は耳にまろく優しかった。それに陽子は安堵《あんど》する。
「あなたたちは……何者?」
「我々はタイホの僕《しもべ》です。──どうぞ、前を。お落としすると叱られます」
「……うん」
陽子はしぶしぶ前を向く。
視界に映るのは暗い海と暗い空、薄く光る星と波、天高く凍えた月、それでぜんぶだった。
「しっかり剣をお持ちになって。決してお身体からお離しになりませんよう」
その声に陽子は怯《おび》えた。またさっきのような吐き気のする戦いをしなければならないのだろうか。
「……敵が来そう?」
「追ってきてはおりますが、ヒョウキのほうが速い。心配はございません」
「……じゃあ?」
「万が一にも剣や鞘《さや》をなくされませんよう」
「剣と、鞘?」
「その剣は鞘と離してはなりません。鞘についております珠《たま》は、あなたさまのお身を守ります」
陽子は腕のなかの剣を見た。鞘には飾り紐《ひも》のようなものがついていて、その先にピンポン玉大の青い石がついている。
「これ?」
「はい。お寒いのでしたら、珠を握ってごらんなさいませ」
言われるままに手のなかに握りこんでみると、掌《てのひら》からじんわりと暖気がしみてくる。
「……暖かい」
「怪我や病気、疲労にも役に立ちます。剣も珠も秘蔵の宝重《ほうちょう》。決してなくされませんよう」
うなずいて、次の質問を考えようとしたとき、急に獣の高度が下がった。
まっくらな海に白く月が影を映している。波の上に縫いとめられたその影が、勢いを増して近づいていた。海上がその勢いに押されたように泡立つ。
さらに下降すれば、海面は沸騰《ふっとう》したように水柱をあげて荒れているのがわかった。
獣はその荒れる海の上に輝く、光の円の中へ飛び込もうとしている。それを感じて陽子は悲鳴をあげた。
「あたし、泳げない!」
白い腕にしがみつくと、女はやんわりと腕に力をこめる。
「大事ございません」
「でも!」
それ以上を言うひまはなかった。海面が前に塞《ふさ》がって、陽子は悲鳴をあげた。