逆巻いた波の飛沫《しぶき》も、水の冷たさも感じない。ただ光の中にとけこむように、閉じた瞼《まぶた》の下に白銀の光がさしこんできただけだった。
ごく薄い布で顔をなでる感触がして目を開けると、そこは光のトンネルだった。少なくとも陽子には、そのように見えた。音もなく風もない。たださえざえとした光だけが満ちている。
頭から飛び込んできた足元では、月の形に白い光が闇を切りとっていた。その表面が大きく波立っているのが見て取れる。
「なに……これ」
もぐるように進む頭上には、足元と同じように丸い光が見える。
頭上にある光の円盤が、足元に白く光を投げかけているのか、それとも逆に、足元にある円盤が頭上に光を投げているのだろうか。いずれにしてもそれが出口だとしたら、このトンネルはひどく短い。
煌煌《こうこう》とした光の中をあっという間に駆け抜けて、陽子を乗せた獣は丸い光の中に飛び込んだ。再び薄い布で体をなでたような感触があって、そうして踊り出たそこは、海の上だった。
突然に耳に音が戻る。鈍い光を弾《はじ》く海面、目をあげるとそれが見わたす限り続いている。入ったときと同じように、まっくらな海上の月の影から陽子たちは滑《すべ》り出ていたのだ。
海面の、はるか向こうはわからない。ただ暗い海ばかりが、月の光を浴びてどこまでも広がっているように見えた。
月の影から出ると同時に獣を中心に大きな波が同心円を描いて広がりはじめる。海面はみるみるうちに泡立って、嵐のように荒れ狂う波を打ちあげはじめた。
波頭の飛沫がちぎれていく様子を見れば、恐ろしいほどの風が吹いているのがわかる。ずっと無風に近かった獣のまわりでも、ゆるやかな風が逆巻きはじめ、頭上には雲が流れはじめた。
獣は高度を増して宙を駆ける。荒れた海の上に縫いとめられた月の影が、月の影そのものにしか見えなくなるほど遠ざかってから、ふいに女が声をあげた。
「ヒョウキ」
堅《かた》い声に陽子は女をふりかえり、そうして彼女の視線を追って背後を見た。夜の海の上、白い月の影から無数の黒い影が踊り出てくるのが見えた。
光を宿したのは天頂の月とその影だけ、それもかき消すように雲におおわれ、やがて完全な闇が訪れた。──まさしく、漆黒の闇。
天も地もない闇のなかに薄く紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。月の影が落ちていた方角だった。その薄いあかりは、炎でも燃えさかっているように形を変え、踊る。
その光を背に無数の影が見えた。異形の獣の群れだった。
こちらはほんとうに躍りながら、あかりのほうからこちらへむけと駆けてくる。猿がいて鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。赤い獣と黒い獣と赤い獣と。
陽子は呆然とした。
「あれは……」
あれは。この風景は──。
陽子は悲鳴をあげた。
「やだ! 逃げてーっ」
女の手があやすように陽子をゆすった。
「そうしております。どうぞご安じくださいまし」
「いや!」
女は陽子の身体を伏せさせる。
「しっかりヒョウキにつかまって」
「あなたは?」
「すこしでも連中の足を止めにまいります。しっかりヒョウキにしがみついて、なによりも決して剣をお放しになりませんよう」
陽子がうなずくのを見て、女は腕を放した。
そのまま漆黒の宙を蹴って背後に向かって駆けてゆく。金茶の縞《しま》がある背が、あっという間《ま》にのまれていった。