「ヒ……ヒョウキ、さん」
陽子はしっかり背に伏せたまま声をかけた。
「なにか」
「逃げられそう?」
「さて。どうですか」
ごく緊張感のない声が答えてから、
「上! ご注意を!」
「え?」
ふり仰《あか》いだ陽子の目に、赤いほのかな光が映った。
「ゴユウが」
しがみついた腕の下の獣が、言うやいなや体をかわして宙を横に跳んだ。その脇を恐ろしい勢いでなにかが墜落していく。
「なに? どうしたの!?」
ヒョウキは宙を左右に跳びながら急激に高度を下げていく。
「剣を。──伏兵が。はさまれました」
「そんな!」
叫んだ陽子の目の前の闇に、うっすらと赤い光がともった。その光を背に黒いなにかの影が見える。踊るようにして近づいてくる、なにかの群れ。
「いや! 逃げてーっ!!」
剣をつかうのはいやだ、そう思った瞬間、そろりと足を冷たいものがなでた感触がした。
獣に跨《またが》った陽子の両膝が音がするほど強くヒョウキの体を挟む。背筋を冷たいものが這《は》って、陽子の上体をむりにもヒョウキの背から引きはがして起こさせる。
腕が勝手に戦闘の準備を始める。両手をヒョウキから放し、剣を鞘《さや》から抜き放つと鞘だけを背中へ、スカートのベルトにはさみこんだ。
「……いや。やめて!」
右手は剣を構える。左手がヒョウキの毛並みを毟《むし》るようにしてつかむ。
「お願い、やめて!!」
近づいてくる群れと、近づいていくヒョウキと、双方が疾風のように突進して交わった。
ヒョウキは異形の群れのなかに躍りこむ。当然のように殺到する巨大な獣を、陽子の手が斬《き》り捨てた。
「いや!」
陽子は目を閉じた。叫ぶことと目を閉じることだけが陽子の意のままになる。
生き物を殺したことなどない。理科の解剖でさえ直視することができなかった。そんな自分に殺生《せっしょう》を要求しないで欲しい。
剣の動きが止まった。ヒョウキの声が響く。
「目を閉じるな! それではジョウユウが動けない!!」
「いやっ!!」
がく、と首がのけぞるほどの勢いで獣が横に跳躍する。
前後に左右に去りまわされながら、陽子は堅く目を閉じていた。殺し合いなどみたくない。目をつむることで剣が止まるなら、断じて目など開けるものか。
ヒョウキが強く左に跳ぶ。
突然に、壁にでも突き当たったような衝撃を感じた。ちょうど犬があげる悲鳴のような短い声を聞いて、陽子はとっさに目を開ける。瞳が深い漆黒だけをとらえた。
なにがおこったのか考える間もなく、ヒョウキの体が大きく傾き、両膝の間から毛並みの感触が消えうせた。
悲鳴をあげる余裕もなかった。陽子は宙に投げ出されていた。
驚いて見開いた目に、突進してくる猪《いのしし》に似た獣が見えて、右手に肉を斬《き》った重い衝撃を感じた。陽子の耳に刺さったのは獣の咆哮《ほうこう》と、自分の悲鳴。
それを最後に五感までもが闇のなかに墜落していった。