ふと気がつくと、陽子は波打ち際に倒れていた。
陽子が倒れた場所から波が砂を濡らしている場所まではすこしだけ距離があったが、水の打ち寄せる勢いが激しい。しぶきが陽子の顔にかかって、それで目を覚ましたのだと分かった。
陽子は顔をあげる。ひときわ大きな波が押し寄せてきて、砂の上を這《は》った水が倒れた陽子の爪先を濡らした。不思議に冷たい気はしなかったので、陽子はそのままそこに横たわっている。爪先を波が洗うにまかせた。
濃く潮の匂いがする。潮の臭いは、血の臭いに似ている、と陽子はぼんやりそう思った。ひとの体の中には海水が流れている。だから、耳を澄ますと身内から潮騒《しおさい》の音がする。そんな、気がする。
また大きな波が打ち寄せてきて、陽子の膝のあたりまで水が押し寄せてきた。波にさらわれた砂が膝をくすぐる。濃厚な潮の匂いがした。
ぼんやりと足元をながめていた陽子は、引いていく水に赤い色が混じっているのに気づいた。ふと目線を沖へ向ける。そこには灰色の海と灰色の空が広がるばかり、赤い色はどこにもない。
また波が打ち寄せてきた。引いてく水がやはり赤い。色の出どころを探して、陽子は目を見開いた。
「……あ」
赤い色の出どころは自分の足だった。波が洗う爪先から、すねから、赤い色が溶け出している。
あわてて両手をついて体を起こした。よくよく見てみると手も足も真っ赤で、制服までが赤黒い色に変色してしまっている。
陽子は小さく悲鳴をあげた。
──血だ。
全身が、浴びた返り血で真っ赤に染まっている。両手はほとんど黒く見えるほど赤くて、かるく手をにぎってみると恐ろしく粘った。そっと触れると、顔も髪も同じように粘つくものでおおわれている。
陽子の悲鳴に合わせたように、またひときわ高い波が打ち寄せてきた。
今度は身を起こした陽子の周りを波が洗っていく。打ち寄せる水は濁《にご》った灰色で、引いていく水は赤い色を溶かしこんでいた。
その水をすくって、陽子は両手を洗う。指の間からしたたる水は、血液そのものの色をしていた。
波が打ち寄せるたびに水をすくって手を洗った。洗っても洗っても、両手は白い色をとりもどさなかった。いつの間《ま》にか水は、座り込んだ陽子の腰のあたりに達している。腰の周りから赤い色がにじみ出て、周囲の水面は赤く染まっていた。しかもその赤は徐々に大きく広がっている。灰色ばかりの風景の中で、赤い色が鮮《あざ》やかだった。
ふと陽子は、自分の手に変化が起こったのをみつけた。赤い手を目の前にかざす。爪が伸びていた。
とがった鋭利な爪が、指の第一関節ほども長く伸びている。
「……どうして」
しみじみと見つめて、さらに変化を悟《さと》る。手の甲に無数のひび割れができていた。
「なに……?」
ぱら、とちいさな赤い破片が落ちた。風に流されて沖へ飛んでいく。
小さな破片がはがれた、その下から現れたのは、ひとつまみの赤い毛だった。ごく短い毛が小さな面積にびっしりと生《は》えている。
「まさか……」
かるく手をこする。ぱらぱらと破片が落ちて、さらに赤い毛並みが現れる。身動きするたびに足からも顔からも破片が落ちて、かわりに赤い毛並みが現れてゆく。
荒い波に現れて、制服が朽《く》ちたようにちぎれていった。その下から現れたのも、やはり赤い毛並みだった。水がさらにその毛並みを洗う。赤い色を溶かし出して、すでに周囲は見わたすかぎり赤い色に染まっている。
凶器のような爪。赤い毛並み。──まるで獣に変化していこうとしているように。
「──うそ!」
叫んだ声はひび割れた。
──ばかな。どうして、こんな。
制服がちぎれ落ちたあとに現れた腕は、奇妙な形にねじれている。それは犬か猫の前肢《まえあし》のように見えた。
──返り血。
──きっと、返り血のせいだ。
ばけものの返り血が、身体を変えていこうとしている。
──ばけものに、なる。
(そんな、ばかな)
──いやだ。
「いや──っ!!」
叫んだ言葉は聞こえなかった。
陽子の耳は荒れる海の波の音と、一匹の獣の咆哮《ほうこう》だけを聞いた。