陽子は左右を見わたす。崖はどちらの方向へ行っても、切れ目がなさそうに見えた。しかたなくきびすを返し、もといた松林のほうへ戻る。コートはなかったがさほど寒いとは感じなかった。ここは、陽子が住んでいた街よりも気候が良いようだった。
さして深くもない林は、台風のあとのように折れた枝が散乱している。そこを抜けると、沼地が広がっていた。
「……・・・?」
よく見れば、そこは沼地ではなく泥が流れ込んだ田圃《たんぼ》だった。
ところどころ水面に、まっすぐに整備された畦《あぜ》が顔を出していた。丈の低い緑の植物が頭だけを泥の上に出して、吹き倒されてしまっている。
見わたす限り泥の海で、離れたところに人家が小さな集落を作っているのが見える。その向こうは険《けわ》しい山だった。
電柱や鉄柱のようなものは見えない。遠くにある集落にも電線のようなものはいっさい見えないし、建物の屋根にアンテナのようなものもなかった。
屋根は黒い瓦、壁は黄ばんだ土壁に見えた。集落の周りを取り囲むようにして背の低い木が植えられていたが、ほとんどが倒れてしまっている。
覚悟していたような異常な風景があるわけでもなく、建物があるわけでもなく、陽子はひそかに胸をなでおろした。すこしばかり雰囲気は違うが、それは気抜けするくらい日本のあちこちで見かける田園風景に似ていた。
安堵《あんど》してよくよくあたりを見わたすと、松林からはかなり遠いところに数人の人影が見える。背格好は定かではないが、べつにバケモノじみたシルエットには見えない。田圃で作業をしているようだった。
「よかった……」
思わず声がもれた。最初にあの海を見てすっかり狼狽《ろうばい》してしまったがこの風景はそれほど異常には見えない。電気が来ていないようだ、という点を無視すれば日本のどこかにありそうな村だ。
陽子はふかく息をつき、それから遠くに見える人々に声をかけてみることに決めた。見ず知らずの人に話し掛けるのは気後《きおく》れするが、陽子ひとりではどうにもならない。言葉が通じるかどうか、ふと疑問に思ったが、とにかく誰かに助けを求めなければならなかった。
怖《お》じけづく気分を励《はげ》ますようにして、陽子は口の中で唱える。
「事情を説明して、ケイキたちを見なかったか聞いてみる」
とにかくそれしか陽子にできることはなかった。