部屋の向かい側にある寝台を見ると、気のいい女は深く眠っている。寝台の上に起きあがって膝を抱くと清潔な肌に清潔な寝間着がサラサラと音をたてた。
音のない深夜、窓の板戸をしめ切った部屋は暗い。重い屋根と厚い壁に守られて、小さな動物のたてる物音が眠りを妨げることもない。空気までが穏やかによどんで、人の眠る場所だという気がしみじみした。
陽子は寝台を下りてダイニングに向かう。棚の中に収めた剣を取り出した。
深夜は起きておくのが短いあいだについた習慣で、すでに柄《つか》をにぎっていないとなんとはなしに不安を感じた。椅子に腰をおろし、達姐にもらった新しい布を巻いた剣を腕に抱きしめて、そっと息をつく。
達姐《たっき》の母親が宿を営んでいる河西《かさい》という街まで、歩いて三日の距離だと聞いた。そこへ着けば陽子はこの世界に居場所を得ることができる。
働いた経験はないが、不安よりも期待が大きかった。達姐の母親はどういう人物だろうか。そこで働く同僚はどんな人たちなのだろうか。
建物の中で眠って朝には起きて、一日を働いて夜には眠る。働きはじめれば仕事のことよりほかに考えられなくなるだろう。ひょっとしたらあちらの世界の家に帰ることも、ケイキを探すこともできないかもしれなかったが、それでもかまわないという気が、今はしていた。
やっと足場を見つけて陽子はうっとりと目を閉じる。
額を当てた布の下で高く澄んだ音がしたのはそのときだった。
陽子はあわてて剣を見る。巻きつけた布の下で淡い光がともっているのが目に入った。おそるおそる布をほどくと、刀身がいつかの夜のように淡く輝いている。その刃に薄く小さな影が見えた。
ぼやけた目の焦点が合うようにして、影が実像を結んだ。まるで映画でも見るように陽子の目の前に現れたのは、陽子自身の部屋だった。手を伸ばせば触れそうなほどリアルだけれど、決して現実ではない。げんに洞窟《どうくつ》に反響するような水の音が絶え間なく続いている。
刀身に見えたのは、例によって母親の姿だった。陽子の部屋の中をウロウロとさまよっている。
母親は部屋の中を歩き回り、引き出しを開け、棚をいじる。なにかを探すようにそれを続ける。何度目かに整理ダンスの引き出しを開いたとき、部屋のドアが開いて父親が現れた。
「おい。風呂」
父親の声がはっきりと聞こえた。
母親はチラと視線を向けて、そのまま引き出しをあらためる。
「……どうぞ。お湯なら入ってます」
「着がえは」
「そのくらい、出してください」
母親の声には棘《とげ》が含まれている。それに対する父親の声にも棘があらわだった。
「こんなところでグダグダしていても、しかたがないだろう」
「グダグダしているわけじゃないわ。用があるの。着がえくらい、自分で出してください」
父親は低い声で言う。
「陽子は出ていったんだ。こんなところでいつまでもウロウロしていたって、帰ってくるわけじゃない」
(出ていった?)
「出ていったんじゃないわ」
「家出したんだ。学校に妙な男が迎えに来ていたそうじゃないか。ほかにも外に仲間がいて、窓ガラスを割ったんだろう。陽子は隠れて妙な連中とつきあっていたんじゃないのか」
「そんな子じゃありません」
「おまえが気がつかなかっただけだろう。陽子の髪だって、実は染めてたんじゃないのか」
「ちがいます」
「子供が不良の仲間に入って、あげくに家を出て行くなんてことは、掃《は》いて捨てるほどあることだ。そのうち家出にあきたら帰ってくる」
「あの子はそんな子じゃないわ。わたしはそんな育て方はしてません」
にらむ母親を父親もにらみ返した。
「どこの親もそういうんだ。学校に押し入った男も髪を染めてたらしいし、おおかたそういう連中とつきあってたんだろう。あの子はそういう子だったんだ」
(お父さん、ちがう……!)
「ひどいことを言わないで!」
母親の言葉にはうらみがこもる。
「あなたになにがわかるの。仕事、仕事って、子供のことはぜんぶわたしに押しつけて!」
「それでもわかる。父親だからな」
「父親? 誰が?」
「律子《りつこ》」
「会社に行ってお金を持って帰ってくれば父親なの? 娘が姿を消しても、会社も休まなきゃなにをするでもない。そういう人が父親なの!? そういう子だった、ですって? 陽子のことを知りもしないで勝手なことをいわないで!!」
父親は怒るよりも先に驚いていた。
「すこし落ちつけ、バカ者」
「わたしは落ちついてます。今までにないくらい落ちついてるわ。陽子が大変なときなんですもの、わたしがしっかりしなくてどうするんですか」
「おまえにはおまえの役目があるだろう。落ちついてるんだったら、やることをやって心配をしろ」
「……着替えを出すのが役目なの? 子供の心配をするよりも優先しなきゃいけない、たいそうな役目なの!? あなたって人は、自分のことしか考えてないのね!」
怒気で顔を真っ赤にして黙りこんだ父親を、母親は見すえる。
「そんな子だった、ですって? あの子はずっと、いい子だったでしょう。口答えをしたことも反抗したこともない。おとなしい素直な子だわ。心配をかけたことなんて、一度だってない。わたしにはなんでも話してくれた。家出なんかする子じゃないわ。あの子は家に不満なんてなかったんですからね」
父親はそっぽを向いて黙っている。
「陽子は学校に鞄《かばん》を残したままなのよ? コートだって残ってた。それでどうして家出なの? なにかあったのよ。そうとしか考えられないでしょう」
「だったらどうした」
母親は目を見開く。
「どうした、ですって?」
父親は苦々しげに答える。
「なにか事件に巻き込まれたとして、それでおまえがなにをしよというんだ。警察にだってちゃんと届けたろう。私たちがここで右往左往して、それで陽子が帰ってくるのか」
「なんなの、その言いぐさは!」
「事実だろうが! それともビラでも電柱に貼るのか。そんなことをして、陽子が帰ってくるのか。──はっきり言ってやるが」
「やめて」
「家出じゃなくて、なにかの事件に巻きこまれたなら、陽子はもう生きてない」
「やめてください!」
「ニュースで見てわかってるだろう。こういう例で生きていたためしがあるか! だから家出だといってやってるんだろうが!!」
母親が泣き崩れた。父親はその姿を見やって乱暴な足取りで部屋を出ていく。
(お父さん、お母さん……)
見ていることがあまりにつらかった。
風景がぼやけて思わず目を閉じ、頬に涙がこぼれたのを感じて目を開けると、視界は澄んで、すでに幻は見えなかった。
目の前には光を失った一振りの剣。すでに光を失った剣を陽子は力なくおろした。
涙が止まらなかった。