死んだほうがましかもしれない状況だが、それでもとりあえず生きてはいる。
「家出なんか、してない……」
どんなに家に帰りたいか。どれほど両親と家がなつかしいか。
「お父さんとお母さんがケンカするの、はじめて見たなあ……」
陽子はテーブルに額を当てて目を閉じる。次から次へ涙がこぼれた。
「……バカみたい……」
今見たものがなんだかわかりもしないのに。真実だとは限らないのに。
陽子は身をおこし、涙をぬぐって剣に布を巻く。これはどうやら剣の見せる幻影らしい。真偽のほどはわからない。それなのに、真実にちがいないという直感がはたらいた。
せつなくてせつなくて、たちあがった。裏口を開けて夜のなかにさまよい出る。
空は満点の星、しかしながら陽子の知っている星座は見えなかった。もともと星座を鑑賞する趣味はない。ひょっとしたら陽子にはわからないだけなのかもしれなかった。
井戸端に座りこんだ。冷えた石の感触と冷たい夜風がすこしだけ気分をなぐさめた。膝《ひざ》を抱いてうずくまっていると、ふいに背後から声がした。耳に刺さるようないやな声だった。
「帰れないよォ」
ゆっくり背後をふりかえると、しっかりした石で作られた井戸の縁に、蒼《あお》い猿《さる》の首が見えた。まるで切断されて石の上にすえてあるように、身体のない首だけが石の上で笑っている。
「まだあきらめてなかったのかい。おまえは帰れないんだよォ。帰りたいだろ? 母親に会いたいだろ? いくら願っても帰れやしない」
陽子は手探りをしたが、剣を持っていなかった。
「だから言ってるのによォ。自分の首を刎《は》ねちまえよ。そうしたら楽になるからサァ。恋しいのもせつないのも、ぜんぶ終わりになるんだぜ」
「あたしはあきらめない。いつか帰る。それがずっと先のことでも」
きゃらきゃらと猿は笑った。
「好きにするサァ。──ついでに教えてやるけどな」
「聞きたくない」
陽子は立ちあがった。
「いいのかい、聞かないで? あの女はナァ」
「達姐さん……?」
ふりかえった陽子に向かって猿は歯を剥《む》いた。
「あの女は信用しないほうがいい」
「……なに、それ」
「おまえが期待しているほど、善人じゃないってことサァ。よかったなぁ、飯のなかに毒が入ってなくてナァ」
「いいかげんにして」
「おまえを殺して身ぐるみ剥《は》ごうって魂胆《こんたん》か、おまえを生かして売り飛ばそうって魂胆か、どっちにしたってそんなもんサァ。それをありがたがっているんだからなナァ。甘い、甘い」
「ふざけたこを」
「オレは親切で言ってんだぜェ? まだわからないのかい。ここにはおまえの味方なんていやしないのさァ。おまえが死んでも気にしない。むしろ生きてちゃ迷惑だからな」
陽子は猿をにらみすえる。猿はそれに対してきゃらきゃらと笑ってこたえた。
「だから言ってるのに。痛いのだったら、一瞬ですんだのにサァ」
大笑いしてから、猿は凄《すご》みのある顔をする。
「悪いことは言わないから、斬《き》っちまいな」
「なに……」
「あの女を斬って、あり金持って逃げるのサァ。往生際《おうじょうぎわ》悪く生きる気があるんだったら、そうしたほうが身のためだぜ」
「いいかげんにしろ!」
きゃらきゃらと狂ったように笑って、猿はかきけすように消えた。いつかの夜のように耳に刺さる笑い声だけが遠ざかってゆく。
陽子はその方角をただ、にらみすえていた。なんのうらみがあっての中傷だろう。
──信じない。
あんなバケモノの言うことなど決して信じたりしない。