そこから河西《かさい》までの道のりは驚くほど楽しい旅になった。最初の頃こそ人に会うたびにビクビクしたが、達姐に言われて髪を染めたせいもあってか、誰ひとり陽子の素性を怪しまないことに慣れてからは、あちこちで人に会うことさえ楽しみになった。
国は古い中国のようなたたずまいをしていたが、そこに住む人のなかにはいろんなタイプの人間がいた。顔立ちこそ誰もが東洋人に見えたが、髪や肌の色はさまざまだった。
肌の色は白人のような白から黒人のような黒まであったし、目の色も黒から水色までさまざま、髪の色にいたってはほんとうに千差万別だった。なかには紫《むらさき》がかった赤毛や青みがかった白髪まであって、もっとも変わった場合には染め分けたように一部の色だけちがっていたりした。
最初は奇妙に感じたが、すぐになれた。なれてみれば、変化があって面白い。ただ、ケイキのような純然たる金髪というのは見かけなかった。
服装は古い中国風、男は上着と丈の短いズボン、女は長いスカートが基本のようだった。ときどき、東洋風であることだけは確実だが、どこの国のどの時代風ともいえない服装をした旅人のグループがいたりしたが、それは旅芸人なのだと達姐が教えてくれた。
陽子はただ歩くだけでよかった。道は達姐が示してくれ、食事の調達から宿の手配までぜんぶ彼女がやってくれた。むろん陽子には所持金がないので、ぜんぶ達姐の支払いである。
「……ほんとうにすみません」
街道を歩きながら言うと、達姐は豪快に笑う。
「あたしはおせっかいなのさ。気にすることはない」
「なんのお返しもできなくて」
「なぁに。ひさしぶりでおっかさんに会える。あんたのおかげだ」
そういってくれる心根が嬉しかった。
「達姐さんは、五曽《ごそ》へお嫁にいったんですか?」
「いいや。あそこにふり分けられたのさ」
「ふり分け?」
達姐はうなずく。
二十歳になったら、お上から田圃《たんぼ》をもらうんだよ。あたしがもらった田圃はあそこだった、ってことだね」
「二十歳になったら、誰もがもらうんですか?」
「そうさ。誰でもね。──亭主は隣に住んでるじじいだ。もっとも子供が死んでから別れたけどね」
陽子は笑った達姐の顔を見返す。そういえば、死んだ子供がいると、この女は言っていた。
「……すみません」
「気にすることはない。あたしの性分が悪かったんだろうさ。せっかくさずかった子供を死なせたんだからね」
「そんな」
「子供は天からさずかるもんだ。天がそれを取り返したってことは、あたしにゃ任せておけないってことだからね。まぁ、人間ができてなかったんだからしかたない。子供がかわいそうだったけどね」
陽子は対応に困ってあいまいに微笑《わら》う。達姐はすこしだけ寂《さび》しそうにしてみせた。
「あんたのおっかさんも、今ごろせつない思いをしてるんだろう。早く帰ってやれるといいねぇ」
陽子はうなずく。
「……はい。でも、戻れるんでしょうか。配浪《はいろう》の長老さんは、戻れないって」
「来れたもんなら帰れるさ。きっとね」
陽子は目をしばたく。屈託のない笑顔が心底嬉しかった。
「……そうですね」
「そうさ。──ああ、こっちだよ」
三叉路《さんさろ》で達姐は左を示す。街道のかどにはかならず小さな石碑が立っていて、行先と距離を刻《きざ》んであった。距離の単位には「里《り》」をつかうらしい。その石碑には「成《せい》 五里」と刻んである。
日本史の教科書で習った知識によれば一里は四キロのはずだが、こちらの一里はもっとずっと短い。多くても数百メートルといったところだろう。五里ならば、あまり遠くない。
風景は決して豊かなようには見えなかったが、のどかで美しかった。土地は起伏が多く、山は概して険しく高い。遠くに薄く見える山のなかには雲を衝《つ》くほど高い山もあったが、雪をかぶっている様子はなかった。空はなんだかとても低く見えた。
こちらは東京よりも一足早く春を迎えたところのようだった。畦《あぜ》には花がちらほらと咲いている。陽子が知っている花もあれば知らない花もあった。
その田園風景のところどころに、小さな家が身を寄せ合うように建っている集落がある。それを「村《むら》」というのだと、達姐が教えてくれた。田圃《たんぼ》ではたらく者が住む家なのだと。しばらく歩けば、周囲を高い壁に囲まれたすこし大きな集落に出会う。それは「里《さと》」といって、近辺の人々が冬のあいだ住む街らしい。
「冬とほかの季節とでは、住む場所がちがうんですね」
「冬は田圃にいてもしかたないからね。冬にも村で暮らす変わり者もいるが、里に戻ったほうがひとがいて楽しい。それに里のほうが安全だしね」
「厚い壁がありますもんね。やっぱり妖魔に備えてあるんですか?」
「妖魔ってのはそう簡単に里を襲ったりしない。むしろ内乱や獣に備えているのさ」
「獣?」
「狼《おおかみ》や熊《くま》や。このあたりにはいないけど、虎《とら》や豹《ひょう》だっているところにはいる。冬になると山に獲物がなくなるから、人里に降りてくるからね」
「冬のあいだ住む家はどうするんですか? 借りるの?」
「それも二十歳になるとお上がくれる。たいがい売っ払っちまうけどね。村にいってる間、商人に貸す連中もいるけどさ。売って、冬には家を借りる、そのほうが普通だね」
「へえ……」
街はすべて高い城壁に守られていた。街の入り口はひとつだけで、そこには堅牢《けんろう》な門がある。門には衛士《えじ》がいて出入りする旅人を監視していた。
いつもは衛士はただ門を守っているだけだと、達姐は言う。旅人のうち、特に赤毛の若い女が呼び止められていたから、配浪から逃げた海客に対する警戒なのだろう。
門を入った中には家が密集し、縦横に走った道には店が並んでいる。街には浮浪者が多かった。街の内壁の下にはテントのような家を建てて生活している人々がいた。
「かならず土地をもらうのに、どうしてなんですか?」
陽子が壁の下を示すと、達姐はすこし眉《まゆ》をひそめる。
「あれは慶国《けいこく》から逃げてきた連中さ。かわいそうにね」
「逃げてきた?」
「慶国は今、国が乱れていてね。妖魔や戦争から逃げてきた連中がああして集まっているのさ。暖かくなってきたから、これからもっと増えるだろうよ」
「こちらにも内乱があるんですね」
「あるともさ。慶国だけじゃない。北のほうの戴国《たいこく》だってそうだ。戴国のほうはもっとひどいって話だよ」
陽子はただうなずいた。こちらに比べれば日本は平和な国だったと思う。ここには戦乱があり、しかも治安は格段に悪い。荷物は片時も離せなかった。ガラの悪い男が声をかけてくることは再三だったし、さらにガラの悪い危険そうな連中に囲まれたこともあった。そのたびに達姐が豪快なタンカを切って陽子を守ってくれた。
そのせいか、人は決して夜の旅をしない。街の門は夜には閉まる。したがって陽《ひ》が落ちるまでにはかならず次の街にたどりついていなければならなかった。
「ひとつの国から次の国に行くまでに、だいたい四ヶ月近くかかるんですよね?」
「そうだよ」
「歩く以外に旅行をする方法はないんですか?」
「馬や馬車をつかうこともあるけどね。そういうのは金持ちのすることだ。あたしぐらいじゃ一生むりかねえ」
こちらは陽子の知る世界に比べてあまりに貧しい。自動車はもちろん、ガスもなければ電気もない。水道もなかった。それがどうやら、たんに文明が遅れているということのせいだけではなく、こちらには石油や石炭が存在しないことが大きな原因のようだと、話をするうちに推測がついた。
「なのにどうして、よその国のことがわかるんですか? 達姐さんは慶国や戴国に行ったことがあるの?」
まさか、と達姐は笑った。
「巧国《こうこく》から出たことはないよ。農民はあまり長旅をしないからね。田圃《たんぼ》があるからさ。よその国のことは芸人に聞くんだ」
「芸人? 旅芸人に?」
「そう。芸人のなかにはね、世界中を回ってる連中がいる。出し物のなかに小説《しょうせつ》ってのがあってね、それはどこそこでこんなことがありました、っていのを聞かせてくれる。いろんな国の話や、よその街の話なんかをね」
「へぇぇ……」
陽子の住んでいた世界でも、ずっと昔には映画館でニュースをやっていたというし、そんなものなのかしら、と陽子は思う。
なんにしても、疑問に答えてくれるひとがいるのは嬉しかった。陽子にはこの世界のことがなにひとつわからない。わからないままなら不安で怖いが、横に親切なひとがいて、ひとつずつ解説してくれればおもしろかった。