案内された部屋は小さかった。畳二枚ほどの面積で、床は板張り、奥に天井から下がった棚があって、そこに薄い布団《ふとん》が何組か入っているのが見える。寝台はないから床の上に布団を敷いて寝るのだろう。
部屋の奥は棚があるので膝をついても身をかがめなければならない。立って一畳、寝ると二畳というわけだった。達姐と泊まったのは天井の高い、寝台もテーブルもある小ぎれいな部屋で、その料金はふたりで五百銭ほどしたようだった。
治安が悪いせいだろう、こんな宿でもドアにはきちんと内外から鍵を使って開ける錠がついていた。その鍵を陽子に手渡して去っていこうとする老人を呼びとめる。
「すみません、井戸の場所は?」
陽子が声をかけると、老人は弾《はじ》かれたようにふりかえって目を見開いた。しばらく、まじまじと陽子を見ている。
「あの……」
聞こえなかったのだろうか、同じことをくりかえす陽子に、老人は目を見開いたままで言った。
「日本語じゃ……」
言うなり、老人は廊下を小走りに戻ってくる。
「……おまん、日本から来たがか?」
答えられない陽子の腕を老人はつかむ。
「海客か? いつこっちに来た? 出身はどこぜ? もう一度しゃべってくれ」
陽子はただ目を見開いて老人の顔を見る。
「頼むからしゃべってくれかえ。俺はもう四十何年も日本語を聞いてないがよ」
「あの……」
「俺も日本から来たがやき。なあ、日本語を聞かせてくれ」
老人の皺《しわ》のなかに沈んだ目に、みるみる透明なものが盛りあがって、陽子もまた泣きたい気分になった。なんという偶然だろう。異境にまぎれこんだ人間が、この大きな街の片隅で出会うなんて。
「おじいさんも海客なんですか?」
老人はうなずく。何度も何度ももどかしげにうなずいて、声が出ないようだった。節のたった指が陽子の腕をにぎりしめてきて、その力に彼の今までの孤独が見えたような気がして、陽子はその手をにぎり返した。
「……茶」
震える声で老人がつぶやいた。
「茶はどうぜ?」
陽子は首をかたむける。
「茶ぐらい飲まんかえ。ちょっとだけやけんど、煎茶《せんちゃ》があるがよ。持ってくるきに。……な?」
「……ありがとうございます」