「……あまりええ茶やないがやけんど」
「ありがとうございます」
からりとした緑茶の匂いが、なつかしかった。そっと口に含む陽子を見守りながら、彼は陽子の正面の床に腰をおろした。
「あんま嬉しいき、仮病《けびょう》をつこうて店をさぼってしもうた。……坊ちゃん、それとも嬢ちゃんかえ。名前は?」
「中嶋、陽子です」
そうか、と老人は目をしばたいた。
「俺は松山《まつやま》誠三《せいぞう》いうが。……嬢ちゃん、俺の日本語は妙じゃないろうか」
陽子は内心首をかしげつつ、うなずいた。なまりはあるが、おおよそ理解はできる。
「そうかえ」
老人はほんとうに嬉しそうに笑う。やはり泣き笑いになった。
「生まれはどこなが?」
「生まれですか? 東京です」
誠三は湯飲みをにぎる。
「東京? ほんなら、東京はまだあるがやな」
「え?」
問い返す陽子にはかまわず、彼は上着の衿《えり》で頬をぬぐった。
「俺は、高地の生まれよ。こっちに来たときには呉《くれ》におった」
「呉?」
「広島の呉じゃ。知っちゅうかえ」
陽子は首をかたむけながら、昔にならった地理の授業を思い出そうとした。
「……聞いたことはあるような気がするんですけど」
老人は苦く笑う。
「軍港があって、工廠《こうしょう》があった。俺は港で働きよった」
「高知から、広島へ、ですか?」
「ああ。母親の実家が呉のほうじゃったきに。七月三日の空襲で家が焼けてしもうて、伯父《おじ》さんの家にあずけられたがよ。無駄飯は食えんきに働きに出たがやけんど、それが空襲があっての。港に入ってた船があらかた沈んだが。そのどさくさで海に落ちたがよえ」
それが第二次世界大戦のことを言っているのだと、陽子は悟《さと》る。
「……気がついたら虚海《きょかい》じゃった。海を漂流しよったところを助けられたがや」
老人が口にした「虚海」はすこしイントネーションがちがう。音の「キョカイ」よりは「コカイ」に近かった。
「そう……なんですか」
「その前にも何度かひどい空襲があって、工廠はもうあってなきがごとしじゃったわ。軍港にしたって、船はあったが使いもんにはならんかったし、第一、瀬戸内海と周防灘《すおうなだ》は機雷だらけで通れやせんかった」
陽子はただ相づちを打つ。
「三月には東京が大空襲で焼け野原になったらしいし、六月には大阪じやち大空襲で焼け野原よ。ルソンも沖縄《おきなわ》も陥落して、正直勝てるとは思うちゃあせんかった。……負けたかよ」
「……はい」
老人は重いためいきを落とした。
「やっぱりのぉ。……ずっとそれが気にかかちょったがよ、俺は」
陽子にはよくわからない。陽子の両親は戦後の生まれで、戦争について語ってくれるような祖父母も身近にはいなかった。はるか遠い昔の話だ。教科書や映画やテレビの中だけで知っている世界。
それでも老人が語る世界はこちらの世界ほど陽子にとって遠くない。うまくイメージがつかめないなりに、耳になじみの深い地名や歴史を聞くのは嬉しかった。
「東京はまだあるがやな。やっぱり米国の属国になったがかえ?」
「とんでもない」
陽子は目を見開いた。老人もまた目を見開く。
「そうか。……そうかえ。けんど、嬢ちゃん、その目はどうしたが?」
陽子は一瞬キョトンとし、自分の緑色に変色してしまった瞳のことを言われたのだと悟った。
「……これはべつに」
言い淀《よど》む、老人は顔を伏せて頭をふった。
「えい、えい。言いとうないがやったら、かまんき。俺はてっきり、日本がアメリカの属国になったせいじゃと思うたがよ。ちがうんなら、かまんき」
きっとこの老人は、自分が見とどけることのできなかった故国の運命を、遠い異境の空の下で案じつづけていたのだろう。故国がどんな運命をたどるのかわからないのは陽子も同じだが、立ち去った時期が時期だけに老人の思いは深かったにちがいない。
こんな世界に放り込まれて、それだけでもこんなにつらいのに、その上さらにこの老人は四十数年もの時間を故国の心配までしつづけたのだと思うと胸が痛かった。
「……陛下はごぶじか?」
「昭和天皇ですか? だったら、そう……ぶじでした。もう、し……」
死にました、と言いかけて、あわてて陽子は言葉を変える。
「亡くなりましたけど」
老人はパッと顔をあげて、そうして深く頭を下げて袖《そで》で目元を押さえた。陽子はためらったあげく、丸めた背中をそっとなでた。老人がいやがる様子を見せなかったので、ひとしきり嗚咽《おえつ》が治まるまでそうやつて骨の感触のあらわな背中をなでていた。