陽子はだまって首をふる。
「……で、何年やった?」
「え?」
問い返す陽子を老人は表情のうかがえない目で見る。
「大東亜《だいとうあ》戦争が終わったがは?」
「たしか……一九四五年だったと……」
「昭和?」
「ええと」
陽子はしばらく考えて、受験勉強のときに暗記した年表をむりやり掘りおこした。
「昭和二十年だと思います」
「昭和二十年?」
老人は陽子を凝視《ぎょうし》する。
「俺がこっちに来たのも二十年じゃ。二十年のいつぜよ?」
「八月……十五日だったと」
老人は拳《こぶし》をにぎった。
「八月? 昭和二十年の八月十五日?」
「はい……」
「俺が海に落ちたのは七月の二十八日じゃったがやき」
彼は陽子をにらむ。
「たった半月じゃいか!」
陽子はただうつむく。なんと言葉をかけていいのかわからなかった。それでだまって、老人が涙混じりに戦争のために犠牲にしてきたものを数えあげるのをじっと聞いていた。
夜半が近づくにつれて、老人は陽子について質問をはじめた。家族は、家は、どんな家だったのか、どんな生活をしてたのか。質問に答えるのはすこしだけつらかった。ここに陽子が生まれる前から捕らわれて帰れない人がいることが、いやおうなく胸にしみた。
陽子もまたこうして生きるのだろうか。一生を帰れないままこの異境ですごすのだろうか。せめて海客どうし、出会えたことは好運なことなのかもしれない。老人がたったひとりで過ごしてきたことを思えば、それはほんとうに幸福なことなのかもしれなかった。
「俺が何をしたいうがじゃろうのぉ」
老人はあぐらをかいた膝《ひざ》に肘《ひじ》をついて頭を抱えた。
「仲間も家族も放り出して、こんな妙なところに来た。どうせ空襲で死ぬがやろうと覚悟しちょったけんど、たったの半月で終わったがよ。あと、たった半月で」
陽子はただ口を閉ざしている。
「戦争が終われば良い目が見れたのに、腹いっぱい食わんまんま、楽しいこともないまんまで、こがいなところに来てしもうて」
「そうですね……」
「いっそ空襲で死んだほうがましじゃったような気がするわえ。こんな得体の知れん、地理もわからんなら、言葉もわからん、こがいなところになぁ……」
陽子は目を見開いた。
「……言葉が、わからない?」
「俺にはさっぱりよ。今でも片言しかしゃべれん。おかけでこんな職しかないわえ」
言ってから陽子をけげんそうに見る。
「嬢ちゃんはわかるがか?」
「はい……」
陽子は老人を凝視する。
「日本語なんだと思ってました」
「バカな」
老人も呆然《ぼうぜん》とした顔をする。
「日本語なもんかえ。日本語を聞いたがは自分のひとり言をのぞけば、今日がはじめてやき。どこの言葉だか、ようはわからん。中国語に似てる気もするけんど、だいぶんちがう」
「漢字をつかうでしょう?」
「つかう。けんど、中国語じゃないき。港には中国人もおったけんど、こんな言葉じゃなかったき」
「そんなはず、ありません」
陽子は混乱した気分で老人を見つめる。
「あたしはこちらに来てから、一度だって言葉に困ったことはありません。日本語以外ならわかるはずがありません」
「店の連中の言葉もわかるが?」
「わかります」
老人は首をふった。
「ほんなら、おまんが聞きゆうがは日本語じゃない。ここには日本語を話す奴なんかおらん」
これはいったいどういうことなのだろう。陽子は混乱を極める。
自分はたしかに日本語を聞いてきた。なのにそれは日本語ではないと、老人は言う。ずっと聞いてきた言葉と、老人が話す言葉と、なんの差異もないように聞こえるのに。
「ここは巧国《こうこく》ですよね。巧《たく》みな国、と書く」
「そうだ」
「わたしたちは海客で、虚海から来た」
「そうだ」
「この街には郷庁がある」
「郷庁? 郷城《ごうじょう》のことか、郷のことかえ」
「県庁みたいなものだと」
「県庁」
「県知事のいる」
「県知事じゃいうのは、ここにはないき。県のいちばんえらい人なら県正《けんせい》よ」
そんな、と陽子はつぶやいた。
「わたしはずっと、県知事って」
「そんなものはないき」
「人は冬には里《さと》に住んで、春がきたら村に帰る」
「冬に人が住むがは里《り》。春に住むがは廬《ろ》」
「でも、あたしは」
老人は陽子をにらみすえる。
「おまん、何者ぜよ!?」
「あたし……」
「おまんは、俺と同じ海客やない。俺はずっとこの異国でたったひとりじゃったる戦争中の日本から、言葉も習慣もわからん場所に放り出されて、この年まで女房も子供もおらん、正真正銘のたったひとりよ」
なぜこんなことがおこるのか。陽子は必死に原因を探ろうとする。どう考えても今まで見聞きしてきた現実のなかに手がかりはありそうになかった。
「最低のところから、最低のところへ来た。どうして戦後の、俺たちの犠牲の上で安穏《あんのん》と生活しよったおまんが、ここに来てまでまたそんな楽な目を見るが」
「わかりません!」
陽子が叫んだとき、ドアの外から声がかけられた。
「お客さん、どうかしましたか」
老人はあわてて口元に指を当て、陽子はドアのほうを見る。
「すみません。なんでもありませんから」
「そうですか? ほかのお客さんもいるんでね」
「静かにするよう、気をつけます」
ドアの外に遠ざかっていく足音を聞いて、陽子はかるく息をつく。そんな陽子を老人は険《けわ》しい色の表情で見ていた。
「今のもわかったがか?」
言葉のことだと気づいて陽子はうなずく。
「……わかりました」
「今のはこっちの言葉やき」
「あたしは……どちらの言葉でしゃべっていました?」
「日本語に聞こえたな」
「でも、ちゃんと相手に通じてました」
「そのようじゃな」
陽子は常にたったひとつの言語しかしゃべっていない。常に聞くのもたったひとつの言語だ。なのにどうしてこんな現象がおこるのだろう。
老人は表情をやわらげた。
「……おまんは、海客じゃないき。少なくとも、ただの海客じゃない」
カイキャクという音はイントネーションだけでなく、すこしだけ陽子が耳なれた音とはちがって聞こえた。
「……おまん、どうして言葉がわかるが?」
「わかりません」
「わからない、かよ」
「あたしにはぜんぜんわからないんです。どうして自分がここに来ることになったのか、どうしておじいさんとあたしはちがうのか」
どうして姿が変わってしまったのか、と心の中でつぶやきながら染めて硬《かた》い手ごたえになった髪に触れる。
「……どうやったら帰れるのか」
「俺も探した。答えは、帰れん、ってそれだけよ」
言ってから、彼は乾いた声で笑う。
「帰れたらとっくに帰っちゅうき。もっとも、帰ったところで今浦島じゃけんど」
言ってから彼は気落ちしたように陽子を見た。
「……嬢ちゃんはどこに行くが?」
「あてはありません。──ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なんぜ?」
「おじいさんはつかまらなかったんですか?」
「つかまる?」
誠三は目を見開いてから、なにかに思い至った表情をした。
「……そうか、ここじゃ海客はつかまるがやな。いいや、俺はちがうき。俺は慶国《けいこく》に流れついたがよ」
「──え?」
「海客のあつかいは国によってちがうらしいがよえ。俺は慶国にたどりついて、そこで戸籍をもろうたが、昨年まで慶国におったけんど、王様が崩御《ほうぎょ》なすって国が荒れた。住むに住めんなって逃げてきたがよ」
陽子は街で見かけた難民を思い出す。
「……じゃあ、慶国なら、逃げずにすむんですか?」
誠三はうなずく。
「そういうことやな。もっとも今はいかんき。内戦があっての、国はひどいありさまよ。俺の住みよった村は妖魔に襲われて半分が死んだ」
「妖魔? 内乱のせいじゃなくて?」
「国が乱れると妖魔が現れるき。妖魔だけじゃない。日照りに洪水、地震。悪いことばっかりよえ。それで俺は逃げてきたが」
陽子は目を伏せる。慶国なら追われずにすむ。このまま巧国を逃げ回るのと慶国に行ってみるのと、どちらが安全だろうか。考えていると誠三が続けた。
「女はもっと前から逃げ出しちょったな。王様がなにを考えたのか国から女を追い出そうとしての」
「まさか」
「ほんとうじゃ。都の堯天《ぎょうてん》じゃ残った女は殺されるという話じゃった。もともとろくな国じゃなかったきに、これを機会に逃げ出した連中も多いろうよ。近づかんほうがえいぜ。あそこはもう妖怪《ようかい》の巣よ。いっときまでは、ずいぶんたくさんの人間が逃げ出しよったけんど、最近じゃそれもめっきり減ったわ。おそらく国境を越えられんがやろう」
「そう……なんですか」
つぶやいた陽子に誠三は自嘲《じちょう》めいて笑ってみせた。
「日本のことは聞かんとわからんけど、こちらのことなら教えちゃれるき。……俺はこっちの人間になってしもうたがやなぁ」
「そんな」
誠三は笑って手をあげた。
「巧は慶にくらべりゃ、ずっとマシな国やき。けんど海客じゃゆうてつかまるがじゃ、マシでもしかたないわな」
「おじいさん、あたし……」
誠三は笑った。半分泣いたような笑顔だった。
「わかっちゅう。嬢ちゃんのせいじゃないきに。わかっちゆうけんどなんだかせつのうてなぁ。あたってすまざったの。逃げにゃいかんがじゃ、嬢ちゃんのほうがたいへんじゃのにのぉ」
陽子はただ首をふった。
「俺は仕事に戻らんと。朝飯の仕込みがあるき。──道中気をつけての」
それだけを言って彼は外にすべり出た。
陽子は誠三を呼び止めかけて、それをやめ、おやすみなさい、とそれだけを言った。