どうして陽子は言葉に困らなかったのだろう。もしも自分が言葉を理解できなかったら、今ごろなにが起こっているか想像するまでもない。しかしながら、なぜこんなことがおこるのかは想像がつかなかった。
ここで通用しているのが日本語でないなら、それが陽子に理解できるはずがない。ドアの外の人物と話したとき、陽子はいったい何語でしゃべっていたのだろう。それが老人には日本の言葉に聞こえ、ほかの人間にはこちらの言葉に聞こえた──。
老人の話すこちらの単語は、すこしだけ音が変わって聞こえた。それすらも奇妙なことに思える。ましてや、県知事などという言葉はないという。では、ずっと陽子が聞いてきた県庁だの県知事だのという言葉は、いったいなんだったのか。
陽子は低い天井をじっと見た。
──翻訳《ほんやく》されている。
陽子が聞いている言葉は、どこかでなにかによって陽子が理解できるよう、つごう良く翻訳されてはいないか。
「ジョウユウ? あなた?」
自分の背中に向けてつぶやいた言葉に、もちろん返答はなかった。
いつものように懐《ふところ》に剣を抱きこんで眠って、そうして目覚めたとき、部屋のすみにおいた陽子の荷物は消えていた。
陽子は飛び起き、あわててドアをあらためる。ドアにはきちんと鍵がかかっていた。
店の者をつかまえて、事情を話す。ドアと室内とをけげんそうにあらためた従業員たちは、陽子を剣呑《けんのん》な目つきでにらんだ。
「──そんな荷物が、ほんとうにあったのか?」
「あった。あのなかに、財布だって入ってる。誰かに盗まれたんだ」
「しかし、鍵はかかってるぜ」
「合鍵は?」
陽子が聞くと男たちはさらに剣呑な目つきをした。
「店の者が盗んだ、と言いたいのか」
「そもそもありゃしねえんだろう? 最初から難癖《なんくせ》つけて逃げるつもりだったな」
男たちは陽子ににじり寄る。陽子はそっと剣の柄《つか》に手をかけた。
「ちがう」
「とにかく代金を払ってもらおうか」
「財布は盗まれた、と言ってる」
「それじゃあ役所に突き出すまでだ」
「ちょっと待って」
陽子は布をほどきかけ、それからふと気づいて男たちに言った。
「昨日のおじいさんを呼んでくれる」
とっさに浮かんだのは彼に口添えを頼もう、という考えだった。
「じいさんだ?」
「慶国《けいこく》から来た。松山、という」
男たちは顔を見合わせた。
「あいつが、どうした?」
「呼んで。彼が荷物を見てる」
男のひとりが入り口に仁王《におう》立ちになり、背後の若い男に顎《あご》で合図をした。若い男が走って廊下を去っていく。
「その左手の荷物はなんだ?」
「これにはお金は入っていない」
「俺があらためてやるよ」
「おじいさんが来てから」
ぴしゃりと言うと、男はうさんくさそうに陽子を眺める。すぐにけたたましい足音がして、若い男が戻ってきた。
「いないぜ」
「いないだ?」
「荷物もない。あのじじい、出て行きやがった」
ドアに立ちはだかった男が舌打ちをして、陽子はその音に歯を食いしばった。
──彼だ。
あの、老人がやったのだ。
陽子は目を閉じる。同じ海客でさえ、陽子を裏切るのか。
陽子が戦後の豊かな時代に育ったのが許せなかったのか、それとも言葉を理解できるのが許せなかったのか、あるいは、そもそもそのていどのつもりだったのか。
同胞を見つけたと思った。老人のほうもそう思ってくれたのだと信じこんでいた。達姐《たっき》にだまされ、陽子にはもはやこの国の人間を信じる勇気が持てない。なのに同じ海客の誠三までが裏切るのだ。
にがいものが、せりあがってきた。怒りは陽子のなかに荒れた海の幻影を呼びおこす。そのたびに自分が何かの獣になり変わっていく気がした。
陽子が波にゆさぶられるまま吐き捨てた。
「あいつが盗んだんだ」
「あいつは流れ者だ。きっとここが気にいらなかったんだろうよ」
「つべこべ言わずにそいつをよこしな。金目のものが入ってないか、俺が見てやる」
陽子は柄《つか》をにぎりしめた。
「……わたしは、被害者だ」
「こっちも商売なんでな。タダで泊めてやるわけにはいかねえんだ」
「そっちの管理が悪い」
「うるせぇ。それを、よこせ」
男が間合いをつめてきて、陽子は身構えた。巻いた布を腕をふってほどく。小さな窓から入った光が刀身をきらめかせたのが視野に入った。
「て、てめえ」
「……そこをどけ。わたしは被害者だと言っている」
若い男が声をあげて走り去り、ひとり残された男がうろたえたようにたたらを踏んだ。
「どけ。金がほしかったら、あいつを探せば」
「……最初からこういうつもりだったな」
「ちがうと言っている。じいさんをつかまえたら、荷物の中から代金は取っておいて」
剣を前に出すと、男がさがる。さらに突きつけたまま三歩進むと、男があわてて転がる勢いで逃げだした。
陽子はそのあとを追うようにして駆け出す。
若いほうの男が呼んだのだろう、駆けつけてきた数人を剣でおどして宿から外に飛びたした。雑踏をかき分けて走る。
腕がひどく痛い気がした。あの老人が切なる力でつかんだ場所が。
二度と人を信じるなという、これはその戒《いましめ》めなのだ。