なんとはなしに街道をたどって次の街についたが、どうせ所持金もなし、宿に泊まれるわけでも食事ができるわけでもない。せめて門を入って難民のように城壁の下で眠ればよかったのかもしれないが、城門には衛士《えじ》が構えていたし、陽子には大勢の人のあいだに混じることが苦痛でならなかった。
ここには味方はいない。誰も陽子を助けない。
ここには陽子に許されるものは、なにひとつないのだ。
だまされて裏切られることを思えば、妖魔を剣ひとつで追い払いながら野宿したほうがずっとましなことに思えた。
着物を着がえてからは女に見られないかわりに、年齢よりも年下に見られることが増えた。こちらの治安は悪い。目つきの悪い連中にからまれることが何度かあって、人に対して剣を向けおどすことの躊躇《ちゅうちょ》が完全に消えた。
昼にはすれ違う人間に注意をしながら歩き、夜には妖魔と戦いながら歩く。夜に眠れば妖魔の急襲があるかもしれず、いきおい夜に歩いて昼には寝る生活になる。
街道沿いの廬《ろ》には食べ物を売る家もあったが、それも昼に限られていたし、なによりも陽子には所持金がなかったので、食事をすることは当然のように絶えた。
何度か飢餓《きが》に耐えかねて、嫌悪を抑えて仕事を探してみたが、大量の難民が流入した街には職がない。非力そうに見える子供ならば、なおさら雇ってくれるところなどありはしなかった。
妖魔は夜毎に現れ、ときおり昼にも現れて陽子に苦渋を強《し》いた。疲労と飢餓は間断なく陽子を悩ませつづけた。それ以上に陽子を懊悩《おうのう》させるのは、剣の見せる幻影と、蒼《あお》い猿だった。
母親が泣く姿を見るのはつらかった。蒼猿は死んだほうがマシだろうと誘惑を続ける。それでも母親の姿を、自分の生活していた場所をせめて見たいという欲求に勝てず、せめて誰かと会話したいという欲求には勝てなかった。
剣の見せる幻影が訪れるのはかならず夜で、それは陽子の帰りたいという思いに反応する。剣が不思議な力を現すのが夜なのか、そもそも夜にしか起きていないから夜なのか、それは陽子にもわからない。
妖魔の襲撃がひきもきらず故郷を思うひまもない夜は体につらく、すこしでも余裕のある夜は心につらかった。剣が光りはじめても無視すれば良いのだとわかってはいても、それをできるほど心強くはなれない。
そうして陽子は今夜も燐光《りんこう》を浮かべはじめた剣を見ている。妖魔から逃げて分け入った山の中、背中を白い樹にあずけていた。
山の深いところでときおり見かけるその白い樹は、陽子の知るいかなる樹とも似ていない。樹皮はほとんど純白で、枝のさしわたしが一軒の家ほどもあるが、高さは低い。いちばん上の枝はどんなに高くても二メートルを越えないだろうと思われた。
葉のない枝は地に垂《た》れるほど低く、細いが恐ろしく堅牢《けんろう》で、剣を使っても断ち切ることができなかった。それはほとんど白い金属でできた作り物の樹を思わせる。枝には黄色い木の実がなっていたが、溶接されたようにもぎ取ることができなかった。
白い枝は夜目にもはんなりと白い。月があればいっそう白くて陽子は気にいっていた。
枝は低いが、それをかき分けて幹のほうへもぐりこむと、根元には座っていられるぐらいの隙間《すきま》がある。白い樹の下にいると、どういうわけか妖魔の襲撃が間遠だったし、野獣の襲撃はほとんどなかったので休憩を取るには申し分がなかった。
その樹の下にもぐりこみ、幹に背中をあずけて陽子は剣を見ている。拓丘《たっきゅう》で海客の老人に会ってからすでに十日以上がたっていた。
剣は淡く光を放って、それに照らされて間近の枝が白く輝く。木の実は金色に光った。
当然のように母親の姿を待った陽子の目の前に、複数の人影が動くのが見えた。
大勢の人間。黒い服。若い女の子。広い部屋と並んだ机。
──教室の風景だった。
教室には制服を着た少女たちがたむろしていた。あまりに見慣れた休み時間の光景だった。きれいにブローした髪とプレスされた制服。清潔そうな白い肌。見ている自分との対比がおかしくて、自嘲《じちょう》の笑みがもれた。
「中嶋、家出したんだって」
聞きなれた友人の声を皮切りに、どっと雑談をする喧騒《けんそう》が陽子の耳に押し寄せてきた。
「家出? うそぉ」
「ほんと、ほんと。中嶋、昨日《きのう》休んでたじゃない。あれって家出なんだって。ゆうべ中嶋の母親から電話かかってきて、ビックリよぉ」
(ずいぶん前のことだな)
「おどろきぃ」
「あの委員長がねぇ」
「やっぱ、まじめな人ほど陰でなにをしているかわからない、ってことじゃないの」
「かもなぁ」
陽子はさらに笑った。自分のおかれた状況との差がおかしかった。
「なにかさぁ、学校に妙な仲間が迎えに来たらしいよ。それがけっこうアブなそうな男だったんだって」
「男ぉ? やるー」
「じゃ、駆け落ちじゃない」
「そうとも言うね。ほら、職員室のガラスさ、ぜんぶ割れてたじゃない。あれ、中嶋の仲間がやったんだって」
「まじ?」
「ね、男って、どんな?」
「よくは知らないけど。髪をロングにして脱色した奴だったらしいよ。ずるずるした妙な格好をしてたって」
「中嶋って、実はヘビメタだったんだ」
「だったりしてー」
(ケイキ……)
陽子は喧騒を前に、亡霊のように身動きできずにいる。
「やっばりねー。あの髪ってさぁ、ぜったい染めてるって思ったんだよね」
「生まれつきだって言ってたじゃない」
「ウソにきまってんじゃん。生まれつきであんな色になるわけないだろ」
「けどさー、教室に鞄《かばん》とコートがあったって聞いたよ」
「えー、何それ」
「きのうの朝、森塚《もりづか》が見つけたって」
「ほんとうに駆け落ちなんじゃない。体ひとつで……ってやつ」
「ばぁか。──でも、それって家出じゃなくて失踪《しっそう》っていうんじやないの」
「こわ……」
「そのうち駅前にポスターとか貼られたりして」
「タテカン立って、街頭で中嶋んちの母ちゃんがビラを配るんだな」
「うちの子を探してください、ってか?」
「無責任なことを言ってるよ、こいつらは」
「だって、あたしには関係ないもん」
「どーせ、家出だって」
「そうそう。案外ああいう優等生に限って、屈折してたりするわけだ」
「駆け落ちなんでしょ。堅《かた》いのに限って、コイに燃えるとなにをするかわからない、と」
「つめてーの。おまえ、中嶋とけっこう仲よかったじゃないの」
「そりゃ、話ぐらいはしていたけどぉ。でも実を言うと、あいつあんまり好きじゃなかったのよねぇ」
「わかる。優等生ぶっててさぁ」
「だよねー」
「なにかっちゃ親が厳しい、って、おまえはお嬢か、っての」
「いえてる。ま、宿題をマメにやってくるのは助かったけど」
「ああ、ほんと。今日も数学のプリント、手つかずなんだよ、実は」
「あー、あたしもー」
「ちょっと、誰がやってないの」
「中嶋ぐらいっきゃ、いないって」
「陽子ちゃーん、帰ってきてぇ」
どっ、とあかるい笑いがわく。ふいにその安穏《あんのん》とした景色がぼやけた。みるみるうちにゆがんで、形をなさなくなる。瞬《まばた》きをひとつすると視界が澄んだが、すでに陽子の目の前には光をなくした刀身しか見えなかった。