子供も母親も心配そうな色を顔いっぱいに浮かべてかけてくる。獣の死体を跨《また》ぐときに、気味悪そうに顔をしかめた。
陽子には身動きができなかった。それで倒れたまま親子が駆けてくるのをボンヤリと見ていた。
助かった、と一瞬だけ思い、そうして不安になった。
陽子は今、切実に助けが必要だった。ひどい痛みはひいたが、まったく消えたわけではない。すでに体力は尽きている。二度と立ち上がれない気さえした。
だからこそ、嬉しいよりも不審な気がする。なんだか話がうますぎはしないか。
「……どうしたの? だいじょうぶ?」
子供の小さな手が陽子の顔に触れる。母親のほうが陽子を抱き起こした。布越しの体温がなぜだかひどく気持ち悪かった。
「いったいどうしたんだね? こいつらに襲われたのかい? 怪我《けが》はひどいのかい?」
言って母親は、陽子の右手に目を止める。小さく悲鳴をあげた。
「……まあ、なんてこと。ちょっとお待ち」
女は着物の袂《たもと》を探った。薄い手拭《てぬぐ》い状の布をひっぱり出して、それで陽子の右手を押さえる。子供は背負った小さな荷物をおろして、そこから竹の筒を出した。
「お兄ちゃん、お水、いる?」
陽子は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》する。なんとなく不安を感じた。
荷物の中に入っていたということは、これはこの子が自分のために持っていた水筒だろう。だとしたら、毒など入っているはずがない。さしだすまでに入れた様子もなかった。
そう自分に納得させてからうなずくと、小さな両手で栓《せん》を抜いた筒を口元にあてがってくれる。ぬるい水が喉を通って、それで一気に呼吸が楽になった。
母親が陽子に聞く。
「ひょっとして、ひもじいのかい?」
今は空腹を感じなかったが、自分が飢《う》えていたことは知っていたので陽子はただうなずく。
「どのくらい食べてないんだね」
数を思い出すのが面倒なので、陽子は黙っていた。
「お母さん、揚《あ》げパンがあるよ」
「ああ、駄目、駄目。そんなのじゃ喉を通りゃしないよ。飴《あめ》をだしておあげ」
「うんっ」
子供は母親がおろした荷物をほどく。籠《かご》のなかに大小の壷《つぼ》が入っていて、そこから子供が棒に水あめをすくいだした。何度かこんな荷物を背負った人々を見かけたことがある。おそらく水飴を売り歩く行商なのだろう。
「はい」
今度はためらわず、陽子はそれを左手でうけとる。口のなかに含んだ飴は滲《し》みるほど甘かった。
「旅の途中かい? いったいなにがあったんだい?」
陽子は答えない。ほんとうのことは言えないし、うそを考える気力はない。
「よくもまぁ、妖魔に襲われてぶじだったねぇ。──立てるかい? もう陽が落ちる。麓《ふもと》の里まであとすこしだ。そこまで歩けるかい?」
陽子は首を横にふった。里に行くつもりはないという意思表示のつもりだったが、母親は動けないという意味にとったのだろう、子供をふりかえった。
「ギョクヨウ、里まで走って人を呼んできておくれ。時間がないよ。全速力でね」
「うんっ」
「けっこうです」
陽子は身体をおこした。親子を見すえる。
「ありがとうございました」
突き放すように言って陽子はなんとか立ちあがった。道を横切って、険《けわ》しい上り斜面を作っている反対側へむかう。
「ちょっと、どこへ行くんだね」
そんなことは陽子にもわからない。だから答えなかった。
「お待ち。もう日が暮れるよ。山に入ったら死ぬだけだ」
陽子はゆっくり道を渡る。歩くたびに右手が痛んだ。
「いっしょに里へ行こう」
上り斜面はずいぶんと急で、これを上るのは──ましてや片手が使えない状態で上るのは、ひどく骨が折れそうだった。
「あたしたちは行商でね、バクロウまで行くところさ。怪しい者じゃない。せめて里へ行こう。ね?」
陽子は道に張り出した枝に手をかけた。
「ちょっと、あんた!」
「どうしてそんなにムキになるんですか」
陽子がふりかえると女は不思議そうに目を見開いた。動きかねた子供までが困ったように陽子を見ている。
「ほっといてください。それともあたしがいっしょに里に行くと、なにかあるんですか」
「そんなことじゃないだろ! もう日が暮れるんだよ! けがだって──」
「わかってます。……急いだほうがいいですよ。小さい子もいるんだし」
「ちょっと……」
「わたしは、なれてますから。──飴をありがとう」
困ったように陽子を見ている女は、たんに親切なのかもしれなかったし、そうでないのかもしれなかった。どちらかはわからないが、見定めたいとも思わない。
苦労して斜面を一段上がると、下から陽子を呼ぶ声がした。見ると子供が両手を差しあげている。片手には水の入った竹筒が、片手には素焼きの湯呑みがにぎられている。湯呑みには水飴が縁《ふち》まで入っていた。
「持ってお行き。あれっぽっちじゃたりないだろ」
陽子は母親を見る。
「でも」
「いいから。──さ、ギョクヨウ」
促されて子供は精いっぱい背伸びをして陽子の足元にそれをおく。おいてから身をひるがえして荷物を背負った母親のもとに駆け戻った。
陽子はボンヤリと子供が荷物を、背負うのを見る。どう反応していいかわからずに、親子が何度もふりかえりながら坂道を下りていくのをぼうっと見ていた。
親子の姿が見えなくなってから、陽子は竹筒と湯呑みを拾いあげる。なぜだか膝が崩《くず》れてその場に座りこんだ。
あの親子が真実善良であるという保証はどこにもない。里についてから態度を変えるのかもしれなかったし、たとえそうでなくても陽子が海客だと知れば役所に突き出すだろう。せつなくても用心はしなければならない。信用してはならない、期待してはいけない。うかつに甘いことを考えれば痛い目にあう。
「助けだったのかもしれないのにナァ」
また耳障《みみざわ》りな声が聞こえた。陽子はふりかえらずに答えた。
「罠《わな》だったかもしれない」
「これでもう二度と助けはないかもなァ」
「ぜんぜん助けじゃなかったかもしれない」
「その身体と手で、今夜を乗り切れるのかい」
「なんとかなる」
「ついて行きゃあよかったのにサァ」
「これでいいんだ」
「おまえはサァ、たった一度の、最初で最後の助かる機会をフイにしたんだ」
「──黙れぇっ!」
ふりかえって薙《な》ぎ払った先に猿の首はなかった。きゃらきゃらと笑う声だけが斜面の上に下生えの中を消えていった。
陽子はなんとなく道をふりかえった。たそがれはじめた道に黒いしみが落ちて、はじめての雨が降りはじめた。