無感動でそれを見ながら手近に転がった蠱雕の首で剣をぬぐい、それでようやく陽子は思い出した。
──自分には連れがいなかったか。
「……楽俊!?」
午寮の街までを見わたすと、城門が開くのが見えた。細く開いた城門のあいだから衛士《えじ》が飛び出してくるのが小さく見える。
自分の足元から城門までのあいだを再度見わたし、陽子は離れたところに倒れた獣を見つけた。灰茶の毛並みは血を吸って赤黒く変色している。
「楽俊……」
駆けよりそうになってあらためて城門を見た。外に飛び出した衛士や人々が口々になにかを叫んでいるが意味は聞き取れない。
楽俊と門とを見比べる。
楽俊の怪我《けが》がどの程度か見てとれる距離ではないが、毛並みを汚した血糊は近くに転がった蠱雕のものばかりではないだろう。
陽子は首から下げた珠《たま》をにぎりこんだ。これが誰にでも効能があるのか、それとも剣のように陽子にしか反応しないのか、それはわからない。しかしもしも、相手を選ばないものならこれは楽俊を助けるだろう。
そう思いながら、珠をにぎったまま動けなかった。
駆け寄って怪我の具合をたしかめ、ひどいようなら珠の力が及ぶか、試してみる。──そうすることが楽俊にとってはいちばんいいのにちがいない。
だが、珠を当てているうちに衛士たちがやってくる。それだけの距離しかない。
倒れた人々のあいだで、たったひとり立っている陽子はめだっているはずだ。遠くから見守っていれば、蠱雕が陽子を狙っていたことも、それを倒したのが陽子であることもわかるはずだ。不審に思われないはずがない。
鞘《さや》のない剣がある。少し調べれば髪を染めていることは簡単にわかる。海客であることはすぐにばれるだろう。
しかし、ここで逃げたら。
倒れたまま動かない毛並みを見た。
楽俊は自分を見捨てて逃げた陽子のことを訴えはしないだろうか。
剣を包んだ細い荷物、染めた髪の色、男物の服、雁《えん》国へ行こうと阿岸《あがん》をめざしていること。そんなものがばれれば、陽子をとらえようとした網は一気に引き絞られてしまう。だからといって倒れた楽俊を抱えて逃げる腕力などありはしない。
楽俊の安全を考えるなら戻るべきだ。
そして、陽子の安全を考えるなら。
鼓動が大きく打った。
──駆けもどって楽俊に止《とど》めを刺す──
そんな、と身内で声がした。それを誰かが叱咤《しった》する。
迷っている時間はない。楽俊が余計なことをしゃべれば、陽子に生き延びる道はない。
戻ることはできない。それはみすみす命を捨てることだ。楽俊をこのまま捨て置くこともできない。それもまた、同じくらい危険だ。だったら。
戻って最善の行為を行い、可能なら楽俊の財布を持ってくる。そうすれば陽子は完全にこの窮地から逃れることができる。その時間はある。それだけの時間ならば。
大きく開いた城門からどっと人が流れ出してきた。駆けよってくる人波を見て反射的に陽子はその場をさがっていた。
いったん動き出すと、止まらなかった。
陽子は身をひるがえす。背後には街道から駆けつけた旅人が迫っていた。その人混みに紛《まぎ》れ、陽子はその場を駆け出した。