関弓《かんきゅう》までは歩いてあとひと月はかかる。そうして、夜には街の出入りができない。いったいどうやって街を出、関弓にいくつもりなのだろうかと陽子が考えていると、指笛に答えたように郭壁の上に影が現れた。淡く輝いているように見える虎が二匹、毛並みは黒い縞《しま》に光線の加減よって色の変わる白、真珠に例えるほど淡くなく、油膜に例えるほど濃くもない。ブラック・オパールのような目が印象的で、すばらしく尾が長かった。
そもそも最初に虚海《きょかい》を渡った夜のように、その虎に騎乗し、半月の浮かんだ夜空を駆けて陽子たちは関弓へ向かった。
ひどく懐かしかった。振り返ってみれば、どれほど長い時間が流れたことだろう。ヒョウキと呼ばれた景麒《けいき》の使令に騎乗して海に向かったのはまだ寒かったころ。あのころの陽子はなにひとつわかっていなかった。景麒のことも、自分のことも。
そしていま、世界は夏。夜気に熱気がこもって、虎の周囲に風がないのが寂《さび》しい。
宙を駆ける獣の足元には、虚海を越えた夜と同じように夜景が広がっている。雁《えん》国の夜は明るい。里が廬《ろ》が、小さな星団を作って虚海のようだった。
「陽子、あれが関弓だ」
背中にしがみついた楽俊が小さな前肢で前方を指さしたのは騎乗して二時間もしたころだったろうか。
楽俊が示した方向にはなにも見えなかった。街の明かりも見えず、ただ深い闇だけがある。どこに、と問い返そうとして、陽子は自分が見るべきものを誤解していたのを悟《さと》った。楽俊は闇の中になにかを示したのではなく、闇そのものを示したのだ。
「……うそだ……」
半月の光を浴びて下界は深い海の色、森の輪郭がわずかに白い。まるで波のようだった。そして、点在する無数の灯火。──その夜景を黒々と切り取った深い穴。
いや、穴ではない。半月を背後にいただいて、それは黒いシルエットだった。夜景を切り取り、穴のように見えるが穴ではない。むしろそれは隆起で──。
「……山」
──こんな山があるものか。
里が天にしか見えないほどの高空にいて、それはなお仰向くほどに高い。
──天に届く山、とかつて楽俊は言った。
だがしかし、本当に天に届くほどの山があろうとは。
一瞬、自分が恐ろしく小さな生き物になった気がした。
屹立《きつりつ》し、天地を貫く柱のようなその山。ゆるやかな山地のあいだから空に向かって伸びた姿は、長さのちがう筆をたばねて立てたようにも見える。細く険しい山頂はほとんどが雲をまとわりつかせていて、その形状を隠していた。
その影になった岩肌が。──まるで巨大な壁のようだった。
「……あれが、関弓? あの山が?」
足元と山までを見比べるとまだ信じられないほどの距離があるのが分かる。なのに、あの巨大さ。
「そうだ。あれが関弓山。王宮のある山はどこの国でもあんなふうだ。あの山の頂上に玄英宮《げんえいきゅう》がある」
わずかに月光を浴びた崖の線が白い。それは垂直に近いほど鋭かった。城の姿を探したが、頂《いただき》は雲に隠れて定かではない。
「あの光が関弓の街だ」
首都ならば烏号より大きな街だろう。それが光ひとつにしか見えないほど遠い。
しばらく陽子は呆然としていた。
こんなに近くに見えるのに空飛ぶ獣の足をもってしても、関弓は逃げているように近くならない。やがて細い山が近づいてきて、首を動かさなくては山全体を視野に収めることができなくなり、ついには完全に上を向いても頂上を見ることができなくなって、それでようやく関弓の街の輪郭が見えた。
関弓は途方もなく高い山の麓に盛りあがったなだらかな丘陵地帯に、弧《こ》を描いて広がっていた。これだけ巨大な山が背後に控えていれば、夜は恐ろしく長いだろう。
そう楽俊に聞くと、そうだと言う。
「巧《こう》国の傲霜《ごうそう》に行ったことがあるが、そんな感じだったなぁ。傲霜は山の東にあるから、黄昏《たそがれ》がうんと長いんだ」
「……そうか」
上空から見れば、関弓は巨大な街だった。足元一面に光の海が広がる。そして目の前には見わたす限りの崖。垂直に細い山が幾重にも重なってできた岩肌は、樹木の一本も見えずただ夜目にも白い。
先を行く延が山の高いところ、断崖に張り出した岩場に舞い降りた。