ふいに声が聞こえて、彼女は音声のしたほうを見た。
あたりはほの暗い闇《やみ》、頭上の枝ばかりが燐光《りんこう》を放って白い。
少し目が慣れると、そこが巨大な洞窟《どうくつ》の中だとわかった。
巨大な──あまりに巨大な半球形の洞窟の、中央に白い枝が垂《た》れている。実をいえば、彼女をおおいかくすようにして垂れているのは枝ではなく根だった。それは岩盤を貫いて、どれほどあるのかわからないほど高い天井《てんじょう》の中央から、彼女の立つ足元までびっしりと細かく枝分かれしながら伸びているのだった。
ふむ、と間近で声がした。
「よい女怪《にょかい》だ」
彼女はもう一度声のありかを探した。
今度はたやすく見つかった。彼女の足元の、そう離れていないところに腰の曲がった老婆《ろうば》が立っていた。
老婆は立ちあがった彼女の、胸のあたりまでしか背丈がない。枯れ枝のような腕を背伸びするように伸ばして、老婆は彼女の濡れて背中にまとわりついた髪をなでた。
「女で」
言いながら、ついで頬《ほお》をなでる。
「首は魚」
軽く腕を叩《たたく》く。
「上体は人」
背中にまわされた手が軽く下の背筋を叩いた。
「下は豹《ひょう》。尾は蜥蜴《とかげ》だね。よく混《ま》じっている」
上の背筋と下の背筋の、ちょうど間のよく緊張したあたりを老婆は軽く押した。
「さ、そんなにお泣きでないよ。──おいで」
おされるままに彼女は歩いた。歩くたびに涙がこぼれて乾《かわ》いた土にしみを作る。
ゆっくりと長い時間をかけて洞窟《どうくつ》を横切り、天井《てんじょう》の岩盤が作る曲線と足元の土が交わるあたりで階段を見つけた。
「サンシ、にしよう」
老婆がやっとつぶやいた。
「汕《さん》、子《し》、だ。おまえは、これから汕子と呼ばれる」
彼女は黙《だま》って狭く暗い石段を上がりながら、老婆の声を聞いていた。
「姓は白《はく》だ。これは蓬山《ほうざん》で実った女怪《にょかい》の定め」
大きく湾曲《わんきょく》した石段を上っていくと、ふいに光が見えた。
「姓をたまわるのは、おまえの使命が重いからだ。それをよく覚えておおき」
彼女はうなずいた。なにが重いのか、言われなくてもわかっていた。
その重みを胸の中に刻みなおすようにしながら黙々《もくもく》と石段を上ると、ふいに視野が開けた。いつのまにか幅広になっていた石段の、正面にぽっかりと大きく四角の穴が空《あ》いていた。
彼女は足を止めた。
見上げる角度にあるその穴から、淡《あわ》い青の抜けるように高い空と、そこに向かって伸びるまばゆいばかりに白い木が見えた。見えるのはそれだけだった。やっと止まった涙がまたあふれた。
老婆が背筋を叩《たた》いた。
「そら、おゆき」
彼女は駆《か》け出した。生れ落ちたばかりの脚《あし》で初めて走った。
石段を上りきり、陽光の中に飛び出し、刺《さ》すような光をこぼしながらまっすぐ木に駆けよった。
彼女は根に実った。長細い根に対して、木は低く大きかった。苔《こけ》むした岩盤の上、空を背景に伸びやかに枝を這った木の、白い白い枝には金の果実がひとつ実っている。
「泰麒」
初めての声が彼女の喉《のど》を越えた。
彼女を実らせた根と、ちょうど一対《いっつい》をなす位置にその果実はある。まだ小さく、両手で包めるほどの大きさしかなかった。陽光が乾ききらぬ鋭敏《えいびん》な肌を刺すのを感じながら、彼女はその実を両手で包んで頬《ほお》を当てた。
涙が止まらない。
「……泰麒」
汕子はこの世に生をうけたのだ。