突然声をかけられて、禎衛《ていえい》は花びらをすくう手を止めた。背後を振りかえると、海桐泉《かいどうせん》に近いことから海桐宮《かいどうぐう》と呼ばれる建物からひとりの女が出てきたところだった。
蓉可《ようか》は女を見やって首をかしげる。見覚えのない顔だったからだ。歳《とし》の頃はわからない。若いようでもあり、すでに中年を越えているようでもあった。着ているものも身につけている装身具も、女仙《にょせん》がつけるそれとは格段に違う。身分の高い女なのだとは想像がついたのだが。
「──玄君《げんくん》」
禎衛があわててその場に平伏し、蓉可もぎょっとしてそれに続いた。
現れたのは蓬廬宮《ほうろぐう》に住まう女仙《にょせん》の長《おさ》、天仙《てんせん》玉女碧霞玄君《ぎょくじょへきかげんくん》──玉葉《ぎょくよう》だったのだ。
「罌粟苑《けしえん》の花が風に乗ってきたのでございましょう」
禎衛が述べると、玉葉は玲瓏《れいろう》とした面を奇岩のあいまの空へ向けた。
「妙な風の吹くことよの」
「はい」
玉葉は少しの間、柳眉《りゅうび》をひそめるようにして空を見上げていたが、すぐに視線をおろして蓉可のほうへ向けた。
「蓉可といったか。──蓬山《ほうざん》にはもう慣《な》れたかえ」
蓉可は声をかけられて狼狽《ろうばい》した。
まだ下界にいた頃、玉葉は伝説の中にしか住まないものだと思っていた。それほど隔《へだ》たりのある女神なのだ。文字どおり雲の上の人に会って声までかけてもらっては、うろたえずにいることなどできない。
「は……はい」
「まだ道に迷うようですが」
禎衛が笑いぶくみに言ったので、蓉可は真っ赤になった。
玉葉は耳に快い声をあげて笑う。
「それは新参者のさだめよの。かく申す禎衛も、昔にはさんざん迷うておったほどに。じきに慣れよう」
ちらりと蓉可が禎衛に視線を向けると、禎衛は屈託《くったく》なく笑っている。
「ほんに。──妾《わたくし》よりは、よほどものおぼえはよいようでございます。労苦をいとわず、よう働いてくれますし」
玉葉は笑《え》んだ。
「それは、感心なこと」
蓉可はさらに赤くなってしまった。
「と、とんでもございません。まだまだ叱《しか》られることばかりで──」
「慣れるまでは、叱られるのも務めのうち。気落ちせずにな」
「──はい」
深々と頭を下げて額を地につけた蓉可を見やって玉葉は微笑《わら》う。同じく微笑《ほほえ》んで若い女仙を見ている禎衛に視線を向けた。
「ときに、戴《たい》の女怪《にょかい》が孵《かえ》ったとか」
「さようでございます」
玉葉は常には蓬廬宮にはいない。ふいにどこからともなく現れる。いつもはどこにいて、どこからどうやって現れるのか、禎衛は知らなかった。不思議《ふしぎ》に思わないでもないが、一介《いっかい》の女仙《にょせん》が詮索《せんさく》してよいことではない。
「名は?」
「汕子《さんし》、と」
「その、汕子はどこじゃ?」
「捨身木《しゃしんぼく》の下に。いっかなはなれようといたしません」
禎衛が言うと、玉葉はふっくりした紅唇《こうしん》で笑った。
「いつものことながら、女怪《にょかい》とは情の深いものよの」
禎衛もまた笑んでうなずく。
麒麟《きりん》には親がない。親の代わりを務めるのが女怪で、これは捨身木の根に実る。麒麟の実が枝につくと一夜で孵《かえ》って、これから十月《とつき》、麒麟が孵るまで枝の下で熟していく果実を見守りつづけるのだ。
「して、どちらと?」
女怪だけがこれから生まれる麒麟の性別を知っていた。
「泰麒《たいき》だそうでございます」
「そうか」
牡《おす》は麒《き》、牝《めす》は麟《りん》、国氏《こくし》を冠して号となすのが古来からの決まりである。現在、捨身木に実っているのは戴国《たいこく》の麒、国氏は「泰」ゆえに「泰麒」と呼ばれる。
玉葉はひとつうなずいて、捨身木に至る道へ足を踏《ふ》みだした。禎衛と蓉可がそれを見送って深く頭を下げたときだった。
突然、大気が震撼《しんかん》した。
逆巻く勢いで突風が小道を駆《か》け抜けた。
声をあげるいとまもなく、禎衛はその場になぎ倒される。同じように倒れた蓉可が悲鳴を上げた。
地が鳴動する。地鳴りは奇岩にこだまして、迷宮が不気味な咆哮《ほうこう》をあげた。
「なにが……」
蓉可の狼狽《ろうばい》しきった声に、禎衛は答えることができなかった。
単なる嵐とも地震とも思えない。単にそれだけのことならば、必ず八卦《はっけ》に予言があったはずである。だいいち、単なる天変地異なら、天神女神の力によって幾重にも守護されたこの蓬山に起こるはずがない。
「玄君、宮の中へ」
とにかく長《おさ》の安全をはからねばと、禎衛が石畳に爪を立ててなんとか顔を起こすと、玉葉は天を仰《あお》いで立ちつくしていた。
いつのまにか空が赤い。薄い赤い紗《しゃ》を幾重にもおろしたようにして、赤気《せっき》がゆらめき空をおおっていた。
「蝕《しょく》か……!」
玉葉は鳴動を続ける大地にはかまわず、空で踊る極光を見すえる。
あの突風に倒されずにすんだのは、さすがは女神と言うべきか。それでも禎衛には、それに感嘆する余裕などありはしなかった。
「蝕──」
大気がねじれ、のたうつように震えるのがわかる。そのたびに頭上で赤気が不穏《ふおん》な蠢《うごめ》きをくりかえした。
赤気のはざまに薄く、蜃気楼《しんきろう》のようになにかの影が見えた。
それは海の彼方《かなた》に細く広がる大地の幻影である。
「そんな──」
この世ならざる土地が、接近しようとしている。
細かく可憐な海桐花《とべら》の花が、突風に散って飛礫《つぶて》のように禎衛を打った。
「ああ──泰果《たいか》があるのに……!」