蓬廬宮《ほうろぐう》の建物は、どれもみな四阿《あずまや》か、さもなければ庵《いおり》のようなたたずまいをしている。風なら岩が防いでくれる。もともと気候のよい山、熱さ寒さには縁がない。ただ雨露がしのげればよかった。
蓉可は小道を走り、白い石の階《きざはし》を五段ばかり上がり、同じく白い石を敷いた宮の床に踏《ふ》み込んだ。ちょうど禎衛《ていえい》もまた宮の中に駆《か》けこんできたところだった。
「汕子を連れてまいりました」
蓉可はその広い八角形の床の上に平伏する。椅子《いす》に座り、背後の手すりにもたれていた玉葉はうなずいた。
蓉可のかたわらに平伏した禎衛が顔を上げる。
「おそれながら、泰果《たいか》が見つかったとか」
「雁《えん》の麒麟《きりん》がみつけてくりゃった」
「では、本当に泰麒《たいき》がみつかったのでございますか」
それは奇蹟に近いことだ。蓬山《ほうざん》のどの女仙《にょせん》もが、もう諦《あきら》めていた。蓬山の歴史の中では、十年も経って帰ってきた麒麟の例などありはしない。過去、蓬莱《ほうらい》に流された麒麟がないではないが、どんなに長くともその半分以下で見つかっている。十年という歳月は禎衛を驚かせるに足るほど破格の数字だった。
玉葉はおっとりと微笑《わら》う。
「おそらく。……いったんあちらへ渡って、胎果《たいか》となれば姿形が変わるが、麒麟には麒麟の気配が見えるという。それで諸国の麒麟に折につけ、虚海《きょかい》を渡って泰麒を探すようお願いしておいたが、今日、ようやく返答があった」
蝕《しょく》に流された果実は、異国において女の胎《はら》にたどりつく。それを胎果《たいか》と称した。
「延台輔《えんたいほ》からでございますか」
玉葉は瑠璃《るり》を削《は》がせて作った扇を口もとにかざして笑う。
「延台輔はしばしば虚海を渡っている様子。見つけてくださるなら延台輔であろうと思うたが、やはりそうじゃったの」
麒麟がしばしば遠出をするのは誉《ほ》められたことではないが、この先つよく咎《とが》めるわけにもいかないだろう。
「蓬莱に麒麟を見つけたという。いまのところ、所在のあきらかでない麒麟は泰麒だけゆえ、泰麒にちがいないであろ」
「……はい」
それでは本当に麒麟が帰ってくるのだ。
「では、さっそく女仙を集めて──」
言いさした禎衛を玉葉は制した。
「よい」
「ですが」
玉葉は首を振って、禎衛と蓉可の背後に呆然《ぼうぜん》と立っている汕子に向き直った。扇を卓の上において、まっすぐ両手を伸ばす。
「……汕子。ここへ」
汕子はのろのろと玉葉の間近へ歩いていく。
「必ず見つけてみしょうと言うたは、嘘《うそ》ではなかったろう?」
玉葉は汕子の手を取った。
「少しばかり遅うなったが、許してたも」
言って汕子の手を叩《たたく》く。
「捨身木《しゃしんぼく》の根元に扉がある。行って、今度こそこの手でもいで来や」
汕子の真円の目にみるみる涙が浮かんだが、彼女は泣かなかった。そくざに身をひるがえすとそのまま駆《か》けていった。
玉葉は疾走《しっそう》してゆく白い女怪《にょかい》を目を細めて見守る。白亀宮を飛びだした汕子が小道を曲がるのを見届けてから、禎衛に向かってはれやかに笑った。
「やっと蓬山に祭りの季節がきますぞえ」
汕子は走った。生まれてこのかた、ねぐらと定めた木の根元に走ると、太い幹のかたわらにひとりの若い女が立って、その足元を示していた。そこには丸く白い光のさしている場所がある。
すでに女仙《にょせん》が集まっていた。見守る彼女たちには一瞥《いちべつ》もくれず、汕子はまっすぐ女のもとにかけよった。
捨身木は崖の上、巨大な一枚岩の上に立っている。ずっしりと苔《こけ》むした岩の、ちょうど木の根元から一歩ほどの場所に、女は立っていた。
足元には銀の輪が落ちている。近づいてみれば、それは単なる輪ではなく、一匹の蛇《へび》だった。白銀の鱗《うろこ》を持ったふたつ尾の蛇が丸くなって、一方の尾をくわえて円を作っていたのだ。
蛇の作った円の中は薄く輝いている。ちょうど丸い光が降り注いでいるようにも、苔の下から光がさしているようにも見えた。
汕子が足を止めると、彼女は微笑《わら》って優美な右手を差し出した。彼女の左手の指には蛇の一方の尾が巻きついている。
「汕子、ですね」
汕子は彼女を見、蛇が作った光の輪をのぞきこむ。両手を広げたほどの輪の、向こうは白い闇《やみ》だった。淡い光の隧道《すいどう》が続いた底に、ぽっかりと丸い穴が空《あ》いていた。穴に切り取られた風景の中に見えるのは、見慣れない様式の建物と、庭らしき空間と、金の丸い光だけだったが、汕子にはそれで充分だった。
──泰麒。
なにを誤《あや》っても、あの光が泰麒か否かを誤ったりはしない。
「お入りなさい。ただし、私の手をけっして放さないでくださいまし」
そういった女は、汕子の知る顔ではなかったが、いまはどうでもいいことだった。
彼女の手を握り、汕子は光の中に踏《ふ》みこむ。冷え冷えとした空気が吹きあげてきていた。隧道の出口には珍珠花《ゆきやなぎ》の花弁が舞い散るようにして、白い冷たい花が吹きこんでいる。
光の中に最後の足までが踏みこむと、ふんわりと浮き上がる気配があって、天地の感覚が消滅した。宙を漂《ただよ》うようにして隧道の出口へ向かって一歩を踏み出した汕子の背後に、女が続いて下りてくる。
「さあ。進めるところまで進んでごらんなさい」
言われ、汕子は歩き始める。出口へ向かって、汕子が進めるぎりぎりの縁《ふち》まで歩んでから、腕《うで》を伸ばした。
いまや視界いっぱいにひろがった風景は、白い冷たい花の舞う墨色の空気の中に金の丸い光が浮かんでいる、ただそれだけの光景だった。
光はよく見れば小さな子供の姿をしているようにも思われたが、汕子の目には、それがひとつの果実のように映った。本当なら十年も前に汕子が白い枝からもいだはずの果実。腕に抱えるほどの大きさがあって、つややかな金の色をしている──。
汕子の指はせいいっぱいに伸ばしても、金の果実に届かない。女の手を握る指に力をこめ、上体を伸ばし、手探りをし、冷たい空気をかきわけ果実をさし招くようにすると、果実のほうから汕子の手の届くあたりへ漂ってきた。
──どれほどこの瞬間を夢見たろう。
汕子は指先に触れたその果実をしっかりとつかまえた。
手元に引きよせると、その実は難なく、汕子の腕の中にもがれて落ちた。