「こちらへおいでなさい、泰麒《たいき》。衣《きぬ》をしんぜましょう」
「衣より水を。それより桃《もも》がよろしいか」
「李《すもも》でも梨《なし》でも」
玉葉《ぎょくよう》が腕輪《うでわ》の女をともなってその場を去るなり、|女仙|女仙《にょせん》にとりかこまれて泰麒は困惑してしまった。
女仙たちの笑顔を見れば歓迎されているらしいとはわかるのだが、なにしろ状況が普通でない。汕子の手を堅《かたく》く握って、腕にすりよるようにする、どっと女仙がはやしたてた。
「あれ、そのように汕子ばかりにつかずとも」
「汕子も独《ひと》り占《じ》めおしでない」
「泰麒、こちらにいらっしゃいませ」
見かねて禎衛《ていえい》は女仙たちに声をかけた。
「そのように浮《うわ》ついては、泰麒もお困りでしょう。しばらくつつしんで、汕子にまかせておやりなさい」
言って禎衛はかたわらに立った蓉可《ようか》を振りかえる。
「宮にお連れおし。露茜宮《ろせんきゅう》がよいだろう」
禎衛は、この若い女仙が泰麒のためにずっとその宮の準備をしていたことを知っていた。蓉可は感極まった様子で禎衛を見返し、それから深くうなずいた。
蓉可はそろそろと子供の前にすすんだ。膝《ひざ》をついて目線の高さを合わせる。泰麒の顔をのぞきこんだ。
「……よくお帰りくださいました。心からおよろこび申しあげます」
泰麒は守るように自分の肩にまわされた汕子の腕がほどけるのを感じた。やんわりと押しだされて、膝をついた女に対峙《たいじ》する。
「あなたは、誰ですか?」
「蓉可と申します」
「蓉可さまは……」
言いさしたとたんに、周囲の女たちがどっと笑った。蓉可もまた笑みを浮かべた。
「蓉可、とお呼びください。さま、と泰麒がお呼びになるのは、玄君《げんくん》だけでよろしいのですよ」
「玄君?」
「玉葉さまでございます」
泰麒が汕子を仰ぎ見ると、汕子はうなずいた。それで泰麒も納得《なっとく》した。
「じゃあ、蓉可。──蓉可はどういう人なんですか? どうしてぼくは、帰ってきたことになるんですか?」
「わたくしはこの蓬山《ほうざん》に住む女仙《にょせん》でございます。そして泰麒は、この蓬山の主。泰麒はここでお生まれになったのですよ」
泰麒は目を見開いた。しばらく蓉可を見つめた。しばらく蓉可を見つめた。
「……ここで生まれた……?」
「はい」
蓉可はうなずく。
「いわば、ここが泰麒のご実家でございます」
「でも……」
言いさした泰麒を、蓉可は首を振ってとどめた。
「泰麒はずっと行方《ゆくえ》知れずでいらっしゃいました。天変地異にまきこまれて、異国に流されておしまいだったのです。本当に……お探しもうしあげました」
そういう蓉可は嬉《うれ》しいような、せつないような表情をしていた。
「どこでどうしていらっしゃるのか、長い間心配もうしあげておりました。やっとお帰りいただけて、こんなに嬉しいことはございません。本当に、よくお戻りくださいました」
泰麒はただ蓉可の顔を見返した。
それでは自分は、うちの子ではなかったのだ、と思った。
思ったとたんに、それはすんななりと胸の中にとけこんだ。
祖母が自分を嫌《きら》うわけも、自分がどこか変で、そのせいで周囲となにかしらぎくしゃくしてしまうわけも、その一言でぜんぶ説明がついた気がした。
実際のところ、彼は家族とうまくやっていくことのできない子供だった。彼自身はうまくやっていきたいと願っていたし、そのように行動しているつもりだったのだが、それでも彼と家族の間にはどうしても埋《う》められない溝が存在した。
同じ年頃の子供がよく考えるように、彼もまた自分は異分子なのかもしれない、と思うことがよくあった。──そして、それはやはり真実だったのだ。
「……もしかして、汕子がぼくの本当のお母さんなの?」
汕子と蓉可を見比べたが、ふたりはともに首を横に振った。
「汕子は泰麒の僕《しもべ》です。泰麒のお世話をもうしあげるためにいるのでございます。わたくしは単なる女仙《にょせん》、泰麒にお気持ちよく暮らしていただけるよう、雑用をいたしますのが務めなのです」
「じゃあ、ぼくの本当のお母さんはどこにいるんですか……?」
蓉可は頭上の枝を見上げた。
「泰麒はこの木になった実からお生まれになりました。天帝がお恵みくださったのですよ」
泰麒は白い木を見あげた。白銀の枝には果実はもちろん、花も葉も見えない。彼はまだ生命の誕生についてよくは知らない。それで蓉可のその言葉には、さしたる抵抗を感じなかった。
きっと──と、泰麒は思った──季節になれば、この枝いっぱいに赤い実がなるのだろう。たぶん大きな実で、それをぽんと割ると、その中に自分が入っていたのだ。
それはどこか奇妙な生まれ方であるようにも思われたが、彼は自分がある種の異端であることをなんとはなしに感じとっていたので、それは生まれのせいなのだと納得《なっとく》することができた。
(それで、だったんだ)
自分はもらわれてきた子だったから、祖母に嫌《きら》われ母の迷惑《めいわく》になっていたのだ。
木の実から生まれたので、どうしても祖母や両親が喜ぶようにふるまうことができなかったのだ。
──そうして、本当の両親はいない。どんな事情があるのかはわからないが、自分にはそもそも親がないのだ。
その思考はするすると胸の内にすべりこんできて、そもそもあった確信のようにそこに宿った。嘘《うそ》だとは思えなかった。なにかのまちがいだとも、思えなかった。ただ──、ひどくせつない気分がした。
「……どうなさいました?」
蓉可が聞いてきたので、唇をひきむすんで首を振った。汕子がいたわるように腕をまわしてきたので、せいいっぱいの力で汕子の身体《からだ》にしがみついた。
──わかってしまった。
(ぼくはうちの子じゃなかったんだ)
たくさんの記憶の断片が脳裏をよぎっていった。
怒らせてばかりいた祖母。父親の叱責《しっせき》。彼はどうしても、ふたりの期待にこたえることができなかった。母親《ははおや》は彼のことで祖母や父親と言い争うことが絶《た》えず、弟は自分が叱られるのは彼のせいだと、そう言って怒った。
──困るんです、と若い教師は言った。
(少しもクラスに馴染《なじ》んでくれないので、困っているんです)
彼女は彼を途方にくれた目で見た。
(やはりこの年頃で、友達がひとりもいないのは問題があると思うんです)
祖母は皺《しわ》の深い口もとを歪《ゆが》める。
(どうしてお友達を作らへんの)
(お義母《かあ》さん、ちがうんです。この子は仲間|外《はず》れになってるんです)
(そんなん、本人の気性《きしょう》に問題があるからやわ。どうしてちゃんと、お友達とうまくやっていくことがでけへんの)
(お兄ちゃんは弱虫だから、仲間に入れてもらえないんだよ)
(あんたは黙《だま》っとき。あんたはあんたで、弱いものいじめばっかり。母親がしっかりせえへんし、うちの子はふたりしてこんなんなんやわ。まともに子供を育てられへんの)
(お義母さん、でも──)
祖母の叱責《しっせき》は結局いつも、母親を責めて終わる。そうして母親はひとりで泣くのだ。
(どうしておまえは、そうなんだ)
父親に溜《た》め息《いき》をつかれて、なんと返答すればよかったろう。
(お祖母《ばあ》ちゃんに叱られずにすむよう、もう少ししっかりできないのか)
──ごめんなさい。と詫《わ》びる以外に返す言葉がなかった。
(お兄ちゃんのせいで、またぼくまで怒られたじゃないか。お兄ちゃんが祖母ちゃんを怒らせてばっかりいるから、ぼくまでいっつも迷惑してる)
──ごめん、と謝《あやま》るばかりで。
彼なりに努力してみても、少しも結果は変わらなかった。
どうしてうまくいかないのか、彼にはわからなかった。自分の存在が家族全部に不快な思いをさせているように思えてならなかった。彼さえいなければ、家族は円満でいられるのではないか、そんな気が常にしていた。
(本当にそうだったんだ)
自分という異分子がいたから。
(ぼくは、うちにいてはいけなかったんだ)
振りかえるとそこは、暖かいばかりの場所であった気がした。父親が、母親が恋しかった。祖母が弟が懐《なつ》かしかった。
彼がもう少しがんばれば、なにもかにもがうまくいって、誰も怒ったり泣いたりせずにいられたのではないかと思えるのに。
(でももう、ぼくは二度とうちには帰れない)
涙がこぼれた。
それは郷愁ではなく、愛惜《あいせき》だった。
彼はすでに、別離を受け入れてしまっていた。