汕子《さんし》の声がして、泰麒《たいき》は目を擦った。きょとんと目を開けて、しばらく横になったまま天井《てんじょう》をながめた。
白い石の天井だった。乳白色《にゅうはくしょく》の石にはびっしりとなにかの図案が彫りこまれている。四隅には鳥の彫刻が見え、草や花が複雑にからみあいながら、天井の中央にある丸い図案を囲んでいる。色は塗《ぬ》ってなかったが、代わりに様々な色をした石がはめこんであった。
「あの鳥はなんていう鳥?」
指を伸ばして四方にとまった鳥を指さした。
「さあ……」
困ったような声に、ふうん、とつぶやく。本当を言えば、鳥の名前が知りたいわけではなかった。昨日、もう大きくなったのにたくさん泣いたのを思い出したので、少しきまりが悪かっただけだ。
「いま、何時?」
思いきって、汕子の声がしたほうを見た。小さな部屋──といっても、彼の勉強部屋よりも少し小さいに過ぎない──の、床いっぱいに薄いきれいな柄の布団《ふとん》がしきつめてあって、三方の壁ぞいにクッションとも枕ともつかないものが並べられている。白い石でできた壁の上半分には、小さな石をはめこんで、なにかの樹木が描かれていた。
一方だけは壁がない。代わりに布が幾重《いくえ》にも下がっている。布はいまたくし上げてあって、ちょうどそこに汕子の姿があった。
汕子は困ったように首を傾けた。
「ぼくは、これからどうすればいいんですか? 学校に行かなくてもいいの?」
泰麒はもう、自分の生活が大きく変わってしまったのだと理解している。目覚ましで起きて、服に着替えて、顔を洗って朝食を食べて学校に出ていくような、そういう生活でないことだけは確かだと直感していた。
「なにをすればいいの?」
「なにも」
そう言って汕子は首を振った。
「お起きになりますか?」
そう聞かれるところをみると、このまま寝ていても起きても、どちらでもかまわないらしい。それがここしばらくの間だけに許された特別な状態なのか、それともこの状態がずっと続くのか、それは判然としないにしろ。
「起きます」
泰麒は小部屋の奥のほうに横たわっていた身体《からだ》を起こした。
汕子が立ち上がって、それでこの小部屋が床から一段高くなっているのだとわかった。カーテンの向こうには、透《す》かし彫りをした細い扉が何枚も並んでいる。開いている部分から、その向こうに別の部屋があるのが見えた。
泰麒は興味深く自分のいる小部屋と、向こうに見える部屋を検分する。昨日は木の下で恥ずかしいくらい泣いて、そのまま眠ってしまった。それで自分が運びこまれた部屋がどういう部屋なのか、少しもわかっていなかったのだ。
この小部屋はとても落ち着ける場所だと思った。向こうに見える部屋も、気持ちのよさそうな部屋だ。向こうの部屋には壁がないようだったが、代わりに白い石の手すりがあって、その外、手を伸ばせば届くほどの距離に、苔《こけ》におおわれた岩が壁のように迫っている。岩壁と建物の隙間《すきま》から入った光が、表面の苔をつややかに輝かせていた。岩壁にしがみつくようにして生《は》えた草や小さな木が、部屋の中にまで入りこんでいるのが面白《おもしろ》かった。
汕子が水差しと桶《おけ》を持って小部屋の中に戻ってきた。一段低くなった部分の、片隅にあるテーブルに桶を置いて泰麒を呼ぶ。ころころと布団《ふとん》の上を転《ころ》がるようにして、汕子のそばによった。
「おはようございます」
言うと、汕子はただ微笑《わら》って泰麒に布団の端に腰掛けるよう、示した。おとなしく腰を下ろす。自分が裸なのに気づいたけれど、特に気にしなかった。汕子も蓉可《ようか》もそのほかの女たちも、泰麒が知るいかなる服とも違う服を着ていたので、ここでは前のような格好はできないのだろうと、そう思った。
裸でも寒くない。かといって暑いわけでもない。ここはちょうどいま、気持ちのいい季節なのだろう。
汕子が少し変わったやりかたで、洗面をさせてくれた。うんと小さな子供になったようで恥ずかしかったが、されるままになっていた。桶《おけ》を持って出ていった汕子は、こんどは服を抱えて戻ってきた。それは、祖母が着る着物に少しだけ似ていると思った。
服を着せてくれる間も、汕子はずっと無言だった。汕子は無口なのだと、そう思ったがべつに気づまりな感じはしない。服を着せられ、手を引かれて隣の部屋へ行くと、部屋の中央には朝食ののせられたテーブルがあって、蓉可がそのそばに立っていた。
「おはようございます。蓉可」
声をかけると、蓉可は嬉《うれ》しそうに笑う。
「おはようございます。よくお休みになれましたか?」
「はい。──蓉可が朝ご飯を作ってくれたんですか?」
「いいえ。お食事を用意するのは、そういう役目の者がするのですよ」
泰麒はきょとんとする。
「ひょっとして、お掃除《そうじ》をするのも、そういう役目の人がいるんですか?」
「さようでございます。──さ、冷めないうちにお食事をなさいませ」
まるでお金持ちの家の子になったようだと思った。実際にそういう子を知るわけではないのだけれど。
蓉可に白く長い箸《はし》を渡されて、それを手に取った。
見慣れない料理を見わたして、それから蓉可と汕子を見比べる。
「蓉可と汕子は食べないんですか?」
「汕子は食事をいたしません。わたくしは、先にすませました」
「でも、ぼくひとりでこんなに食べられません」
テーブルの上には大小いくつもの皿が並んでいる。
「お残しになって、かまわないのですよ」
「ひょっとして、ぼくが寝坊をしたのでみんなご飯をすませてしまったんでしょうか」
蓉可は笑う。
「汕子は食事をしないのです。そういう生き物ですから。たとえ食事をしても、泰麒にお相伴《しょうばん》できる身分ではありません」
泰麒は首をかしげた。身分、という言葉は知っているが、納得《なっとく》するのが難しい言葉であったからだ。
「一緒にご飯を食べられないんですか? 寝坊しなくても?」
「さようです」
泰麒は困りきってテーブルを見つめた。
「……どうなさいましたか?」
「ここではそうするのが、あたりまえならしかたないんですけど……」
「はい?」
泰麒はそばにひかえた蓉可を見上げる。
「そういの、ぼくは少し変な感じがするんです。……ええと」
首をひねって、言葉を探した。
「寝坊した罰《ばつ》で、ひとりでご飯を食べるのなら、我慢できるんですけど。そうじゃなくて、それなのにひとりでご飯を食べるのは変な感じです。きっと一緒に食べたほうがおいしいと思うんです」
まあ、とつぶやいて、蓉可は声を立てて笑った。心得たようにうなずいて、部屋の一方にある衝立《ついたて》の向こうに声をかける。どうやらその向こうにも部屋があるらしかった。
「──手を休めてこちらにいらっしゃいませ。泰麒が朝餉《あさげ》にお招きくださるそうです」