奇妙な格好、奇妙な生活習慣、野菜しか出ない食事。
不思議《ふしぎ》はたくさんあるが、そんなものにこだわるほど大人《おとな》ではない。不快なことならばともかく、それらはいっさい特に不愉快《ふゆかい》とも思えなかったので、泰麒《たいき》は苦もなくそれを受け入れていった。
ひとつだけうまく馴染《なじ》むことができないことがあるとすれば、それは自分の姿形が変わったように思われることだった。ここにある鏡は家にあったそれほど明瞭には姿を映してくれないが、映りの悪いことを考慮に入れても、どうにも自分でないもののように思われてならない。
もともとしみじみ自分の顔を眺める習慣などありはしなかったので、どこがどうちがってしまったのか説明はできないが、鏡に映った自分は他人のように見えた。
どういうしくみでかはわからないけれど、あの白いもやの満ちた道を通ったときに、なにかの変化が起こったようだった。
自分の置かれた立場は、いくらも経たずにのみこんだ。女仙《にょせん》によってたかって世話を焼かれること、適当な時間に起き、適当な時間に眠り、その間なにをするでもなく蓬山をめぐって暮らすこと、汕子《さんし》や女仙にいろいろな質問をして、ここでの暮らしに必要な知識をたくわえること、それがいま自分に求められているすべてであること。
暖かく──その実緊張して泰麒を見守る女仙たちも、すぐにその緊張を解《と》いた。
「最初はどうなることかと思ったけれど」
茉莉花《まつりか》の上に広げて乾《かわ》かした布をふるいながら女仙のひとりが言う。あおがれて茉莉花の匂《にお》いが強くなった。
「なにしろ、十年も蓬山を離れていた麒麟《きりん》の例などほかにありゃしないんだから」
蓉可《ようか》は同じように布をふるいながら、軽く彼女をねめつけた。
「何年離れていようと、麒麟は麒麟だもの。変わるはずがないでしょう」
「そりゃ、そうなんだけどね」
同じようにしてふるった布をたたんでいた別の女仙《にょせん》が声をたてて笑う。たたんだ布は茉莉花の移り香でいい匂いがした。
「さすがに蓬莱《ほうらい》育ちでは、奇妙なところがないじゃないが。──なぁに、|嫌なふうに奇妙なわけじゃないから、かまやしない」
蓉可はたたんだ布を積んだ手を腰に当てる。
「奇妙呼ばわりは聞き捨てなりません。そりゃあ、蓬山育ちの麒麟よりもあたしたちに気安いけれど、奇妙どころかありがたい話じゃありませんか」
周囲で衣《きぬ》をとりこむ数人の女仙がどっと笑った。
「蓉可は本当に泰麒びいきだ」
「泰麒びいきで悪いんですか」
むきになる蓉可の周りを女仙は取り囲む。踊るように近づいて蓉可の足元に布を積んでは、はやしたてて離れていく。
それを見守っていた禎衛《ていえい》もまた、笑った。
「そんなに蓉可をいじめるものじゃない」
本来、蓬山の女仙は陽気だった。それでも、麒麟の世話をするためにいるのだから、肝心の麒麟がいなければなんとはなしに意気消沈して過ごす。ましてや、つい先だってまでのように、麒麟の行方《ゆくえ》がわからずにいれば、さしもの女仙も悄《しお》れようというものだ。
麒麟は常にいるとは限らない。むしろ蓬山に麒麟のいない時間のほうが長かった。麒麟がいなければ水|汲《く》みも洗濯も機織《はたお》りも全部が自分たちのため、はりあいのないことおびただしい。──だが、いまはちがう。いまは麒麟がいる。
それでもう、どの女仙もすっかり浮かれてしまっている。それでなくとも女仙にとって麒麟は愛《いと》しい。どの麒麟も愛しいことに変わりはないが、どうしたって現在いる麒麟が一番愛しい気がしてしまう。実をいえば女仙の誰もが蓉可を笑えない。五十人近くいる女仙の全部が、泰麒を愛しくて愛しくてたまらないのだ。
それでも蓉可をよってたかって「泰麒びいき」と呼ぶのは、ほかの女仙より泰麒に馴染《なじ》みの深い年若の女仙を少しばかりねたんでのふるまいに過ぎない。
「蓉可!」
子供特有の澄んだ声がした。
女仙《にょせん》がみんな手を止めて、声のしたほうを見る。細い小道を抜けて、泰麒が広場に駆《か》けこんできたところだった。
「隠して、隠して」
泰麒は息を弾《はず》ませて言う。蓉可に飛びついて、背後に隠れた。
「泰麒も蓉可びいきだ」
「ほんに」
女仙たちは笑って言って、持っていた布を積みあげる代わりに、泰麒にかぶせる。茉莉花《まつりか》の茂みと蓉可の間に隠れた小さな身体《からだ》は、あっというまに布の山に隠されてしまった。
女仙たちがくすくすと笑っていると、傾いた陽射しがさっと遮《さえぎ》られた。奇岩の上に白い姿が見えて女怪《にょかい》が広場に下りてくる。それに向かって全員が東の小道をさした。
「あっちだよ、汕子」
「泰麒なら、あちらへ向かわれたよ」
「あたしを転《ころ》ばす勢いでねぇ」
口々に女仙が言ったが、汕子はけっして泰麒を見失ったりはしないのだ。まっすぐ蓉可に近づいて、背後の布の山を持ち上げてしまう。首をすくめるようにして隠れていた泰麒が、顔をあげて大きく息をついた。
「……やっぱり見つかった」
汕子の前脚を抱くようにして、ぺたんと座りこんでしまう。まだ息が弾《はず》んでいた。
汕子はその頭をひとつなでて、腕に抱えた衣を女仙に渡す。女仙たちが笑った。
「汕子の目をくらまそうなんて、無理な話だ」
「そうみたい」
笑って言った頬《ほお》は紅潮している。汕子の前脚に身体《からだ》をもたせかけて、袍《ほう》の襟《えり》をゆるめる子供を誰もが笑って見守った。いままで蓬山にいたどの麒麟《きりん》よりも、泰麒は見た目にも愛らしい気がするのは、全員が泰麒びいきのせいかもしれない。
蓉可も笑って泰麒の髪をなでる。戻ってきたときよりも伸びた髪が、汗で額に張りついていた。やんわりと額にかかった髪をかきあげてやる。
麒麟の髪は普通は金の色をしている。正確には髪でなくて鬣《たてがみ》なのだが、泰麒のそれは鋼《はがね》の色をしていた。普通の麒麟でない証《あかし》だが、それが特別尊いことのように思われてならない。
「水を浴びておいでなさい。すぐに夕餉《ゆうげ》ですよ」
麒麟は女仙よりはるかに高位の生き物だった。それでも世話をすれば自分の子供のような気がするから、自然口調はくだけてしまう。女仙の長《おさ》である碧霞玄君《へきかげんくん》でさえそうなのだから、彼女たちを咎《とが》める者がいるはずもなかった。
「幸い、着替えはここにいくらでもある。ここがすんだらお迎えに参じましょう」
「うん」
うなずいて泰麒は立ちあがる。
「汕子、行こう」
泰麒の手を引いて歩いていく汕子を、女仙《にょせん》たちは目を細めて見送る。
「一番の泰麒びいきは、汕子だね」
「まったくだ」
うなずきあったが、悔しいわけではない。女仙とはちがい、汕子は泰麒だけのものだ。それを抜きにしても、怒る気にはなれない。彼女たちは運がいい。ちょうど夕餉《ゆうげ》の前に泰麒に会えた。食事の直前に会えたものが、泰麒の食事に相伴《しょうばん》する。それが最近できた蓬山での新しい不文律《ふぶんりつ》だったので。