露茜宮《ろせんきゅう》に近い淵《ふち》に向かう小道を曲がったとたんに、澄んだ笑い声が聞こえてきた。
淵では泰麒が汕子《さんし》の尾を追って、もぐったり浮かんだりをくりかえしている。高く掲《かか》げた尾を捕まえそこねて水に倒れこんだ泰麒は、水面に顔を出すなり、蓉可たちに気づいて手を振った。
「お迎えに参じましたよ」
「ありがとう」
女仙のひとりが岸に布を広げる。水から上がった泰麒がその上に立つと、別の女仙が腕《うで》に広げた布で小さな身体《からだ》を包みこんだ。
「自分でするよ」
「泰麒は背中を濡れたままにするから、だめです」
言い放って彼女は白いからだから水滴をぬぐっていく。泰麒は自分のことを他人にしてもらうのをすまながるが、要は誰もが泰麒に触れていたくてたまらない。
さらに別の女仙がひとそろい着せてやって、蓉可が髪をふいてやった。
「もう、だいじょうぶ」
「まだ髪から滴《しずく》が落ちていますよ」
泰麒は布の間からこぼれおちた自分の髪をつまんだ。それは黒とも銀ともつかない奇妙な色に変色してしまっている。
「髪が長すぎない?」
「まだ短いくらいです」
泰麒はきょとんと蓉可を見上げる。
「伸ばさないと、いけないの? 女の子みたいに?」
「伸びるのがとまるまで、伸ばすのが普通なんだそうですよ。そろえるぐらいはしますけどね」
「切っちゃ、だめなの?」
「転変《てんぺん》したときにみっともないお姿でいたいのなら、お好きにどうぞ」
「……転変?」
蓉可はあらかた水気をきった髪を梳《くしけず》ってやる。
「泰麒は麒麟《きりん》ですもの。麒麟の形になることができるんですよ」
「キリンの形、って。それ、動物のキリンのこと?」
「そうですよ」
泰麒は考えてしまった。
自分は実はキリンなのだとは聞いていたが、「キリン」とは単に木の実から生まれた人間のことだと思っていた。蓉可のいまの言葉からすると、どうもそればかりではないらしい。
「ぼくは、実は動物なの?」
これはちょっと困惑する事態だった。人だって動物の一種なのだけど、少しばかり意味がちがう。
「そうですとも」
「いつか会った、廉台輔《れんたいほ》も?」
「もちろんです」
泰麒はさらに困惑してしまった。
狼男《おおかみおとこ》のようにキリンに変身するのかしら。狼になるのはそんなに変ではない気がするけれど、キリンになってあんなふうに首が伸びたりするのは変な気分がするにちがいない。
──この時点で、泰麒は麒麟という生き物をまだ勘ちがいしたままだった。
微笑《わら》って泰麒と女仙《にょせん》たちを見守っていた禎衛《ていえい》は、すっかり困った顔をしている泰麒に気づいて、ああ、とつぶやいた。
「泰麒は転変したことがないんで、よくわからないんですね。──麒麟の髪は、あたしたちの髪とはちがう。それは鬣《たてがみ》ですから」
泰麒はうなずいた。たしかにキリンには鬣がある。
禎衛は泰麒を手招きして、額の中央、生《は》えぎわに近いあたりにそっと触れる。なにかひどく嫌《いや》な気が、落ち着かないような不安なような感じがした。
「──ここにほんのわずか、盛りあがったところがありましょう?」
言われてあわてて指で探った。確かに、なでるとわかるていどの小さな盛り上がりがあった。
「これが角《つの》。角は麒麟《きりん》にとって、特別だいじな場所だから大切にしないといけません。いま、嫌な感じがなさったろう? 触られるのが嫌な気が」
「……ちょっとだけ」
「無理をなさることはないんですよ。麒麟は角に触れられるのが嫌《きら》いな生き物なんですから。大きくなれば、もっと嫌になります。ぜったいに触らせないようになる。たとえそれが汕子でもね」
──そういえば、と泰麒は思う。自分はそもそも額をなでられるのが好きではなかった。それが母親でも、なんとなく逃げたい気分がしたものだ。
「じゃあ、やっぱりぼくはキリンなんだ」
「もちろんです」
蓉可は呆《あきれ》れたように口をはさんだ。
「転変《てんぺん》すれば、はっきりわかりますよ、きっと」
「転変、って、どうやってするの?」
泰麒に問われて、蓉可は首をかしげた。
「そうですねぇ。生まれたときからずっと蓬山《ほうざん》で育っていれば、なんとなくわかるんでしょうけれど。うまれたときから、あるていど大きくなるまで、麒麟は麒麟の姿をしてますから。──蓬莱《ほうらい》じゃ、麒麟でも生まれたときから人の姿をしているんですって?」
蓉可も蓬莱の事情をよく知るわけではないが、過去に蓬莱から帰ってきた麒麟の例があるので、噂話でとはいえまったく知らないわけでもない。
「キリンになるのって……嫌な感じがしないのかなぁ」
「転変を嫌がる麒麟はいませんから、べつに嫌なことじゃないんだと思いますよ」
「変じゃないのかな」
「少しも変じゃありませんとも」
言ってから蓉可は泰麒の髪を指で梳《す》いた。
「泰麒はね、普通の麒麟とは少しちがいます。普通の麒麟は、廉台輔《れんたいほ》のように金の鬣《たてがみ》をしているものですから。泰麒は黒麒麟なんですって。黒麒麟は珍しいんだそうですよ。……早く蓉可にも見せてくださいまし。鬣の色がこんなにきれいなのだから、きっとおきれいでしょうね」
「でも、どうやってなるのか、想像もつかない」
「でしょうね……」
蓉可は息をつく。
「あたしにも、想像もつきません。あたしは麒麟《きりん》じゃないし、だから転変《てんぺん》したことなんてないですもの。──もしも機会があれば、玄君《げんくん》にお聞きしておきましょうね」
「うん……」
まだどこか釈然としない様子《ようす》でうなずく泰麒を見つめながら、禎衛は内心で眉をひそめた。十年もの長い間、人として暮らしてきた泰麒がはたして転変できるのだろうか。転変しない麒麟はいないが、もしもその最初の例になれば、それはかなり不憫《ふびん》な話だ。
玉葉《ぎょくよう》に聞けばわかるのだろうが、肝心《かんじん》の玉葉には会いたくて会えるものではない。しかも、泰麒にはもうあまり時間がなかった。
禎衛はなにごとかを言って笑いあう泰麒と蓉可から視線をそらし、不安な気分で暮れはじめた空を見あげた。
幸い春分は過ぎたが、夏至《げし》には確実に人が昇ってくる。
──転変できない不完全な麒麟が、王を選ぶことができるのだろうか。