突然、悲鳴のように高い声が聞こえて、泰麒《たいき》は目を見開いた。
「なんと──いうことを!」
「泰麒!」
駆《か》け寄ってくる足音が聞こえた。視野に真っ青になった女仙《にょせん》の顔が飛び込んできた。
「こんな──酷《ひど》い──泰麒!」
女仙が駆け寄ってきて、両手が伸ばされる。そのとたんに涙がこぼれた。暖かな手に抱き起こされ、いい匂《にお》いのする腕《うで》にだきしめられて、このままもう死んでしまいたい気分がした。
「なんという無体をなさる! ──汕子《さんし》、およし!」
「おまえたちの飼い犬か! さっさと退《さ》がらせろ!」
「退がるのはそちじゃ、無礼者!」
一喝《いっかつ》する声に泰麒は顔を上げた。
それは禎衛《ていえい》の声に聞こえたが、それほど激しい禎衛の声をはじめて聞いた。男もきょとんと禎衛を見ていた。汕子は壮絶な顔でその男をにらんでいる。
「──汕子、およし。血で汚れては、泰麒のおそばに上げられません。それが嫌《いや》だったら、気を鎮《しず》めなさい」
汕子に言った禎衛は、凛《りん》と首をあげて男を見すえる。
「この蓬山《ほうざん》で、おそれおおくも泰麒に対し、なにゆえに非道のふるまいか」
「泰麒?」
男はもうひとりの女仙《にょせん》にしがみついた子供を見た。
「それではやはり、その餓鬼《がき》──いや、その御子《おこ》が泰麒か」
「いかにも。古来より蓬山に小さき人は蓬山公《ほうざんこう》のみ。──さて、その蓬山公に対し、かように無礼非道なふるまいをなされた理由をお聞きいたしましょう」
男は満面に笑みを浮かべた。
「泰麒! やはり! ──俺が捕《つか》まえた!」
足を踏《ふ》みだした男に向かって、禎衛は身構えるように手を掲《かか》げる。
「返答は。──おそばに寄るは、かないません。まず理由を申しなさい」
「俺が捕まえたんだ! この、俺が」
「返答いたせ。それとも、この蓬山の女仙の、仙たる証《あかし》をその目で見たいか」
男は愛想《あいそ》のように笑ってみせた。
「俺は戴国馬候《たいこくばこう》が司寇大夫《しこうだいぶ》、醐孫《ごそん》と申す。蓬山に泰麒帰還との噂を聞いて参じた」
「甫渡宮《ほときゅう》では、醐孫なる人物の昇山《しょうざん》を許しておらぬ」
「おお……それは申しわけないことをした。気が逸《はや》って、一目|蓬廬宮《ほうろぐう》を見ようと礼を欠いたはお詫《わ》び申しあげる。だが──俺が捕《と》らえた」
「捕らえたとは、いかなる意味か」
男は目を丸くする。
「俺が、泰麒を捕らえたのだ。礼儀を欠き、蓬山におわす方々を無視した不調法はお詫びするが、俺に泰麒を賜《たわま》りたい」
言って男は破顔した。
「俺が、泰王《たいおう》だ」
泰麒は、自分を抱いた女仙が震えるのを感じた。その震えが伝染したように、立ちはだかった禎衛も肩を震わせる。
「この──痴《し》れ者《もの》が!」
あまりに激しい恫喝《どうかつ》に、男が半歩下がる。
「戴国馬州はかくも愚《おろ》かな者に、司寇大夫《しこうだいぶ》の位をくれてやってか!」
男はさらに半歩下がった。
「泰麒をなんと心得る。おそれおおくも蓬山公を、黄海《こうかい》で生け捕る妖獣と同じく思うたか。痴《し》れたことをぬかすでない! 泰王だと? 片腹痛いわ。天のお罰をこうむって、雷に打たれぬうちに、早々に立ち去るがよい!」
「しかし──」
「黙りゃ! それ以上、下賤《げせん》の口を開こうものなら、天になりかわって妾《わらわ》がそちを八つ裂きにするが、かまわぬか」
男は言葉もなく、口を開き、閉じしている。
泰麒を抱いた女仙《にょせん》が立ちあがった。ていねいに腕《うで》に絡んだ鎖《くさり》をほどいてくれる。
鎖のからんでいたあたりをなで、頬《ほお》をなでて髪を梳《す》き、いまにも泣きそうな顔で泰麒の顔をのぞきこんだ。
「おいたわしいこと。さぞ、恐ろしゅうございましたでしょう。……いま、宮へお連れいたしましょうね」
「……汕子が」
かたわらに悄然《しょうぜん》と立っている汕子を見ると、女仙は首を横に振った。
「いまはいけません。汕子は捨て置いてくださいまし。……さ」
いまひとつ事態は呑《の》みこめないが、少なくとも汕子が自分を守るために傷だらけになったことはわかる。
怪我《けが》の状態はひどくないのか、礼を言ってぐあいをたずね、手当てをしてやりたいのに、血だらけになった姿を見ているだけで心臓をわしづかみにされる気がする。汕子のほうから濃厚な血の臭気がして、どうしてもすくみ、そばに寄ることができなかった。
後ろ髪を引かれる思いで、抱き上げられるにまかせた。身体《からだ》のどこもここも痛んで、一歩ゆすられるごとに泣きたかった。