身体中《からだじゅう》を検分するようにして、ていねいに体を洗ってやりながら、泰麒《たいき》から事情を聞いた。聞きながら何度も、痴《し》れ者《もの》が、と悪態をこぼす。
「……なにが起こったんだと、思う?」
泰麒には実をいえば、よく理解ができなかっのだ。
首をかしげて不安そうに見あげてくる泰麒に、蓉可は微笑《ほほえ》んでみせた。
「あたしがうかつでした。春分は過ぎたので油断してました。……お許しくださいね」
「蓉可のせいじゃない」
「いいえ。これはちゃんとお話していなかったあたしの落ち度です。……本当にたいしたお怪我がなくてよかった。きっと汕子《さんし》が岩から落ちた泰麒を、ちゃんとお守りしたんでしょう。帰ったらねぎらってあげましょうね」
「……うん」
「そして、約束してくださいまし。二度と、おひとりで──汕子がいても、女仙《にょせん》のいないときに、外へ出てはいけません。いえ、どうぞ、外に近づかないとお約束くださいまし」
「門のほうには行かない」
泰麒が言うと、蓉可はうなずく。布を両手に広げたので、湯からあがってその中にくるまれた。
蓉可は泰麒をそのまま抱きあげて、寝室の奥の牀榻《しょうとう》に連れていった。布団《ふとん》の上に下ろして、そっと小さな身体《からだ》をふいてやる。
「……麒麟《きりん》は王を選びます」
「どうやって? 王様は王様の子供がなるんじゃないの?」
「いいえ。王は麒麟が選んで王にするんですよ」
「……よく、わからない」
「あたしにもよくわからないんです。麒麟ではありませんからね。──ただ、こういうことです。王を選ぶのは天帝です。天のいちばん偉《えら》い方が、いろんな人の人柄を比べて、いちばん王にふさわしい人を決めるんです」
「……ふうん」
「天帝はそれを麒麟に伝えます。……べつに天帝が耳打ちしてくださるわけではないんですよ。ただ、麒麟は王になるべき人に会うとわかるんです。天啓《てんけい》が下りますから」
「天啓、ってどういうもの?」
「それは、麒麟でなければわかりません。麒麟なら必ずわかります。うんと小さな麒麟でも、ちゃんと王は選びますから」
「……うん」
「これから先、蓬山《ほうざん》には自分こそが王にふさわしいと思う人々が昇ってきます。泰麒にお会いして、泰麒に選んでもらうために」
「今日の……あの人みたいに?」
蓉可はうなずいた。泰麒の髪をふいた布を置いて、代わりに下着を着せかけてやる。
「そうです。たくさんの人がきますよ。これから……そうですね、夏至《げし》を過ぎると」
「どうして、夏至?」
「蓬山は黄海《こうかい》の中央にあるんです。ふつう黄海に人は出入りできません。ただ、門が四つあって、四門のどれかをくぐれば黄海に入れます。その四門が、春分と秋分、夏至と冬至《とうじ》の日にひとつずつしか開かないんです」
四門の開く日を安闔日《あんこうじつ》という。それ以外には、それぞれの門は堅《かた》く守護されていた。
「一日だけ?」
「一日だけです。午《ひる》から翌日の午まで。──泰麒がお戻りになって、いくらもせずに春分でしたから、昇山《しょうざん》する者はまにあわなかったのだろうと思ってました。それで油断をしていたあたしたちがうかつでした。どうぞお許しくださいましね」
「……ううん」
「その男はぎりぎりで、まにあったんでしょう。本格的に人が昇ってくるのは夏至《げし》を過ぎてからになりましょう」
「……ふぅん」
「四門からここまでは、どんなに早くても半月はかかりますから、一度入ると次に門が開く日までは出られない。それで蓬山を目指して集まった者たちは甫渡宮《ほときゅう》の周りに天幕を張って、帰るまでの日をつぶします。黄海には妖魔《ようま》や妖獣がいますけど、蓬山には入れないので安全ですから。それはたくさんの人でね、小さな街ができるくらいなんですよ」
「そんなにたくさん? ぼく、本当にわかるんだろうか」
「それは心配に及びません。必ず天啓《てんけい》が下りますから、わかります。天啓がなければ、どんなにりっぱな人でも、その人は王になるべき人じゃないんです」
「……うん」
「ただ、なかには今日の男のようになにかかんちがいしている馬鹿者《ばかもの》もいるんです。麒麟《きりん》を捕《つか》まえた者が王だとか、とにかく麒麟にひざまずかせればいいのだとか、まちがったことを信じている乱暴者がね」
「それで、蓬廬宮《ほうろぐう》は迷路の奥にあるの?」
「そうだと思いますよ。実際、麒麟が生まれたと聞くと、麒麟をさらいに忍びこんでこようとする、たわけ者もいるくらいですから」
「……ふうん」
「その時がくれば、ちゃんとあたしたちが外にお連れします。だから、それまではひとりで外においでにならないでください。たとえ中にいても、充分に気をつけないといけません」
「……わかった」
蓉可は笑って、泰麒の髪をなでる。
「天啓が下ると、麒麟は王の前に平伏します。王以外の者にはぜったいに平伏したりしない生き物ですけどね。──天帝や西王母《せいおうぼ》の廟《びょう》でも麒麟だけは平伏しなくていいきまりになっているぐらいですから」
「へぇ……」
「そうして、けっしてそばを離れない、ぜったいに命令に逆らわないという誓約を立てます。御前を離れず、勅命《ちょくめい》に背《そむ》かず、忠誠を誓うと誓約する、と」
「うん」
「王が、許すと言ってくださったら、王の足に額《ひたい》を当てる。──角《つの》を当てるんです。それでその人は王になります。泰麒が選んだ方なら、泰王《たいおう》とお呼びします。戴国《たいこく》の王をそうお呼びするんです。泰麒はそれ以後、泰台輔《たいたいほ》と呼ばれる」
「ややこしいんだね」
こころもとなげにした泰麒に、蓉可は微笑《ほほえ》む。
「そうですか? 王を選ぶと、蓬山のもっと上へ昇ります。上に西王母の廟があるんです。泰麒はそこへ王をお連れする」
「どうやって? 汕子でも昇れないのに」
蓉可はさらに笑った。
「その時になれば、勝手に道がひらけます。廟に昇って天勅《てんちょく》を受けて、そうして戴国へお下りになる。──天勅はどんなものだと、お聞きになってはいけませんよ。それをしっているのは麒麟《きりん》と王だけなんですから」
「はい」
「きれいな雲が蓬山から戴国までかかります。雲に乗って、戴国へお下りになるんですよ」
「……それで?」
「それで?」
蓉可は泰麒を見返した。子供は不安そうな表情を浮かべている。
「それから、どうなるの? ひょっとして、ぼくは戴国で暮らすの?」
「もちろん、そうです」
「じゃあ、それきり蓉可には会えないの?」
泰麒は泣きそうな表情をした。
「汕子にも? 禎衛《ていえい》にも、ほかの女仙《にょせん》たちにも?」
まぁ、とつぶやいて、蓉可は布団《ふとん》の上に座った泰麒を抱きしめる。
「そうですね。……お会いすることはないやもしれません。でもね、汕子はおそばを離れませんから。ずっと泰麒といっしょです」
「王を選ばないでいることはできないの?」
「王を選ぶことが、泰麒の大事なお役目なんですよ」
細い腕で抱きかえしてきた子供の背中を蓉可はなでる。
「りっぱな麒麟になって、りっぱな王をお選びくださいまし。あたしたちは、蓬山から泰麒がどんなふうにお暮らしだか、ちゃんと見守っておりますから」
蓬山は麒麟《きりん》を育てる場所だから、旅立った麒麟は帰ってこないほうがいい。女仙《にょせん》たちの両手はいつでも、新たに生れ落ちた麒麟のためだけにあるのだから。──だがそれは、今の泰麒が知る必要などないことだ。
「泰麒が立派にお役目を果たしてくださることが、あたしたちのたったひとつの願いです」
泰麒はうなずいた。
──うなすごうとしているように、思われた。