暦の上で、というのは、蓬山《ほうざん》にはそもそも気候の変化がないからである。
ひるがえせば、夏至《げし》に近づく。夏至には黄海《こうかい》の南西にある令坤門《れいこんもん》が開くのだ。
「泰麒《たいき》、おぐしをゆわえましょうか」
禎衛《ていえい》は声をかけた。川底の小石を拾おうとして、水面に髪を落とし、何度もうるさそうにかきあげる泰麒を目撃したからだ。
「うん」
泰麒は言って、川端の石に腰を下ろした。禎衛は帯についた飾り紐《ひも》をほどいて、それで鋼《はがね》色の髪を結《むす》んでやる。切りそろえながら伸ばしてきた髪は、すでに背中にかかっている。それでもまだ、結んでしまうと物足りなく感じた。
「前髪だけでも、切っちゃだめ?」
「どうしてもとおっしゃるなら、お好きなように切ってさしあげますけどね。そのかわり、あとで後悔《こうかい》なさってもしりませんよ」
「これだけあれば、充分だと思うんだけど」
麒麟のこころもとなげな言葉に、軽く笑う。
「麒麟《きりん》になったときにこのままの長さ、というわけじゃありません。みあった長さになるようですよ。泰麒の髪はまだまだ伸びたがってますから、きっとこれでも短いのだと思いますけど」
「いちど、キリンになってみればはっきりするのにね」
「試してみなくとも、あたしたちが心得ておりますよ。──さ、どうぞ」
ぽちゃん、と音をたてて水の中に戻った泰麒を目を細めて見守る。
「斎麟《さいりん》の話をご存知ですか?」
「斎麟? ううん」
「昔々、とてもおしゃれ好きの斎麟がいらっしゃいまして」
「麟だから、才国の女の子だね」
「さようです。その斎麟が女仙《にょせん》の髪をうらやんで、髪をゆえと言ってきかなかったんですって」
「女仙みたいにゆったの? かんざしをして?」
禎衛は縫《ぬ》い物をしながらうなずく。
「そうですとも。──油でとかして、きっちりゆって、色とりどりのかんざしで飾ったところまではよかったのですけどね、急に夕立が来て、一足先に転変《てんぺん》して宮に戻ろうとしたら、鬣《たてがみ》をゆったまま。首がのけぞって、まっすぐにならなかったというお話」
軽く泰麒がふきだした。
「……痛かったろうな」
「そうでしょうとも。泰麒もお気をつけなさいませ。ゆわえたまま麒麟《きりん》になって、痛い思いをなさいませんよう」
「はぁい」
くすくす笑う泰麒に笑いかえして、禎衛は手元に視線を戻した。
馬州の醐孫《ごそん》という男が現れて以来、泰麒の周囲には必ず二、三人の女仙がつき従うようになった。女怪《にょかい》はいざとなれば、泰麒を守ることしか考えられない生き物だから、時には無益に血を流してかえって泰麒を傷つける。
事実あの日も、一度の沐浴《もくよく》ていどでは血の臭気が落ちず、それをまた泰麒が女仙には言わずに、いつものように汕子《さんし》の添い寝を許したものだから、結局翌日になって熱を出す騒ぎになってしまった。
(……使令《しれい》がいればいいのだけれど)
禎衛は胸のうちでつぶやいた。
汕子ひとりでは、泰麒の守護は手に余るのだ。
十年の歳月がうらめしいのはこういうときだ。
五山《ござん》をとりまく黄海は妖魔《ようま》の住処である。本来なら、少しずつ黄海の縁《ふち》を散策しながら、麒麟は妖魔を手なずけて使令にしていく。まずは五山の麓《ふもと》から、麓に集まった小物を遊びのように折伏《しゃくぶく》して、やくたいもない妖魔を集めるところから始めるのだ。
(泰麒にその時間がない……)
しかも、本人も妖魔を折伏する方法などわかりはしないだろう。禎衛にだって教えてやることはできない。それは麒麟《きりん》が生まれながらに知っているはずのことだ。
──せめてその半分の年月で帰っていれば。
麒麟は獣形で生まれる。五年はそのままで、まだ角《つの》はない。言葉も喋《しゃべ》れず、女仙《にょせん》の意図もうまく理解できない。鳥の雛《ひな》のようなものだ。
鳥の雛は飛ぶことを知らないが、麒麟は生まれながらに宙を駆《か》ける方法を知っている。麒麟の雛は女怪《にょかい》だけを従えて、五山《ござん》を奔放《ほんぽう》に駆け、妖魔《ようま》を集めて遊ぶ。女怪の乳だけで育って、傷にも血の汚れにも強い。
五年ほど──個人差はあるが──すると、ときおりなにかのはずみに人の形を取り、人語を喋るようになる。いくらもしないうちに、人獣ひんぱんにいれかわるようになって、ある日額に角の先端が現れる。それと同時に乳離れして、完全な人形を現すのだ。
だから麒麟は、普通なら乳離れしたときから、転変《てんぺん》のしかたも折伏《しゃくぶく》のしかたも知っている。誰に教わる必要もない。角が完全に伸びきるまでは成獣とは呼べないが、麒麟としての能力はすべてが揃っている。だからこそ、旗が揚げられるのだ。
麒麟が乳離れすると、生国──実際にそこで生まれるわけではないが、そう呼ぶ──に報がもたらされ、各祠に麒麟旗《きりんき》があげられる。蓬山に麒麟あり、すでに王の選定に入る、という意である。麒麟旗を見て、我こそはと思うものは蓬山に昇ってくる。
禎衛は溜《た》め息《いき》を落とした。
泰麒はすでに雛ではない。帰還した日に、生国──戴国《たいこく》では麒麟旗があげられた。いまさら、できぬとはどうあっても通らない。王は選定してもらわねばならない。転変はできてあたりまえ、自分の身を守るていどの使令《しれい》は持っていてあたりまえ。
「……どうしたものか」
禎衛がつぶやいた声が耳に入ったのか、泰麒が顔をあげた。
問い掛けるような表情に、禎衛は首を横に振ってみせる。
言わないほうがいい。転変の件のように、いたずらに泰麒を悩ませるだけだ。どうせ女仙の誰も教えてやることはできないのだから。
やっともとの元気をとりもどした泰麒に、また沈んだ顔をさせたくない。
蓉可《ようか》から王を選べば蓬山には帰れないのだと聞いて、泰麒はひどく悄《しお》れてしまった。夏至《げし》が来るのが憂鬱《ゆううつ》そうで、見ている女仙のほうがあわてたくらいだ。
夏至に昇ってきたものの中に王がいるとは限らない、季節季節に昇ってくるもののなかに王を探して、何年も過ごす麒麟もいるのだと、あまりに現れぬ王に業《ごう》をにやして、自ら蓬山を飛び出して王を探しに出る麒麟もいるのだという話を聞いて、ようやく落ち着いたようだった。
「なんとかするならいまのうちだが……」
幸いいまは甫渡宮《ほときゅう》の周囲に人がいない。春分の安闔日《あんこうじつ》にまにあったのは、あの醐孫《ごそん》とかいう男だけだったようだった。
その醐孫も、女仙《にょせん》に寄ってたかって責められたあげく、水ももらえぬ食料ももらえぬ、という冷淡極まりない扱いに辟易《へきえき》して蓬山を降りてしまった。国へ帰るために令坤門のあたりで門が開く安闔日《あんこうじつ》を待っているのだろうが、妖魔《ようま》や妖獣から身を守りながらの野営は生半可《なまはんか》なことではない。かろうじて生き延びても安闔日に入ってきた連中の笑いものになるだけだが、あいにく禎衛には同情する気にはなれない。
だがそれも夏至《げし》まで。夏至を過ぎれば、甫渡宮のあたりには常に人がいる状態になる。いまのうちに黄海へ連れていって妖魔に対峙《たいじ》させれば折伏《しゃくぶく》の方法を思い出すかもしれないが、雛《ひな》に比べて泰麒はすでに野生の強靭《きょうじん》さを失っている。万が一のことが、と思うとそれもさせかねた。
「禎衛、悩みごと?」
声をかけられて顔をあげると、気づかわしげに泰麒が禎衛の顔をのぞきこんでいた。
「……いいえ」
「ぼくがなにか、心配させてるの?」
禎衛は微笑《わら》った。女仙を悩ませるのは麒麟《きりん》だけであることを、すでに泰麒は理解している。その聡明さが嬉《うれ》しく、女仙の気鬱《きうつ》を気づかってくれるやさしさが愛《いと》しい。
「とんでもありません」
「でも」
「針仕事にうんざりしただけですよ。自慢じゃありませんが、あたしはこういうことが苦手なんです」
「ぼくに手伝える?」
「あらあら、それはありがとうございます。でも、泰麒に禎衛より上手《じょうず》に縫《ぬ》っていただいたら、あたしは顔を隠して行方《ゆくえ》をくらまさなきゃなりません。──お気にせずに遊んでいらっしゃいまし」
笑って頭をなでてやりながら、禎衛は思う。
──せめて、ほかの麒麟と会わせてやれるといいのだけれども。
麒麟なら、女仙にも汕子にも教えられぬことを、教えてくれるにちがいないのに。