大人《おとな》の景麒に追いつくのは、泰麒にとってやさしいこととはいえない。ましてや景麒が少しも歩調を緩めてはくれないものだから、紫蓮宮《しれんきゅう》についたときにはすっかり息が上がっていた。
紫蓮宮も露茜宮《ろせんきゅう》と大差ない造作をしていた。景麒は宮に入って、少しの間なにを思っているのか、それぞれの部屋を歩きながら室内を見渡していた。懐《なつ》かしんでいるのだろうと判断して、泰麒は黙って控えている。
一通り宮の中を歩いてから、景麒は中の間の椅子《いす》に腰を下ろす。やはり泰麒は黙ってそばに控えていた。
家具はあるが、掛け布や飾り物は取り払われている。そんなものを持って右往左往する女仙《にょせん》をしりめに、景麒はじっと物思いにふける風情《ふぜい》だった。
すっかり存在を忘れられてしまったようで、泰麒はしだいに落ち着かなくなる。景麒の表情を見れば声をかけるのははばかられるが、かといってこのままそばにいるのも邪魔なような気がする。
すっかり途方にくれてしまったので、女仙がテーブルの上に茶器をそろえて出したときには心底ほっとした。
「お騒がせして申しわけありません。お茶でもおあがりなさいませ」
女仙は言って器を景麒に差しだす。
「そのように黙っておられては、泰麒がお困りですよ」
「ああ……」
やっとその存在を思い出したように、景麒は泰麒を見る。
「これは、失礼」
表情のない顔で、軽く会釈する。
「あの……、ぼくはお邪魔でしょうか。でしたら、帰りますけれど」
おずおずと問うた泰麒に答えたのは、景麒ではなく女仙だった。
「そんなことはありませんよ。さ、泰麒もお茶を召しあがれ」
椅子をすすめてくれたので、迷いながら腰を下ろしたが、居心地《いごこち》の悪いこと、この上もない。
「ええと……景台輔《けいたいほ》はどちらにお住まいですか?」
「慶《けい》です」
「慶国はどういうところなんですか?」
景麒は気のない声で答える。
「東の国です」
それきり口を閉ざしてしまったので、泰麒には慶国がどんな国なのか、さっはりわからなかった。
「景台輔も蓬山《ほうざん》にいらっしゃったんですよね」
「そうです」
「生まれたときからずっとですか? ぼくは、このあいだここに来たんですけど」
「生まれた時からです」
「いつまでいらっしゃったんですか?」
「二年前までです」
「じゃあ、二年前に王様を選んだんですね」
「王にお会いできたのは昨年のことです」
ああ、と泰麒はつぶやく。
「では、二年前に王様を探して蓬山を降りてしまったんですね」
「そうです」
「あの……」
泰麒は花の匂《にお》いのするお茶をのぞきこむ。
「王様を選ぶのはどういう感じなんでしょう。蓉可《ようか》は天啓《てんけい》が下るのだというんですけど、ぼくにはよくわからなくて……」
景麒の返答はどこまでもそっけなかった。
「そのときになればわかります」
「ぼくでもまちがいなく王を選べますか?」
「選べます。麒麟《きりん》はそういう生き物ですから」
「天啓がどういうものなのか、わからなくてもだいじょうぶでしょうか」
「天啓を言葉で表現するのは難しい。王にお会いすれば、どういうものだかわかります」
「間違った人を選んでしまったり、王様を見逃すことはないんでしょうか」
「ありえません。王には王気がありますから」
「王気?」
景麒は無表情にうなずく。
「王の気配です。風格といってもいいのですが。とにかくほかの者とはちがうので、わかります」
「ぼくは普通のキリンとはちがうらしいんですけど、それでもわかりますか? 普通のキリンとは選び方がちがうということはないんでしょうか」
「わたしは黒麒麟を存じあげないので、わかりません」
「……はぁ……」
泰麒はすっかり困ってしまった。額《ひたい》に薄く汗が浮いている。
あんなに麒麟《きりん》に会ってみたいと思ったのに、その麒麟が目の前にいて、少しも前に進んだ気がしないのは、どうしてだろう。
「景台輔は、蓬山を降りて、どうやって王様を探したんですか?」
目の前にいる人間の中から誰かを選ぶならともかく、どこにいるかわからない相手を探すのはたいへんではなかったのだろうか。
「王気をたよりに」
「いろんな人に会って、王気があるかどうか、ためしてみたんですか?」
「王気は本人が目の前にいなくても、ばくぜんとながら感じられるものです。それで王気のある方向に向かったまで」
「……そうですか……」
これまた、泰麒にはよく理解できなかった。
「景台輔は転変《てんぺん》できるんですよね」
「転変できない麒麟はおりません」
「ぼくはできないんです。……やり方がわからなくて……」
景麒は泰麒を見た。その目は鮮《あざ》やかな紫をしている。
「手をあげるのに、やり方を聞きますか? 歩く方法を習いますか?」
「いえ」
「それと同じです。転変の方法を聞かれても答えられないし、答えたところでおわかりになるとは思えない」
「はい……」
泰麒はうつむいた。それでは自分は、このまま一生転変できないのかもしれない。
沈黙が流れた。景麒のほうからは話しかけてくるつもりがないのを感じとって、泰麒は立ちあがる。ひどく汕子《さんし》に会いたかった。
「……お邪魔をして申しわけありませんでした」
頭を下げると、無言の会釈が返ってきた。
「夕餉《ゆうげ》のときにお会いできるでしょうか」
「玉葉《ぎょくよう》さまはそのおつもりのようでしたから」
「はい。……本当に、うるさくしてごめんなさい。失礼します」
「ええ」
一礼して踵《きびす》を返した。急ぎ足で宮を出たけれど、表に出るまではもたなかった。外に出る石段にたどり着くまえに涙がこぼれた。せつなくて情けなくて、足が止まる。追いかけてきた女仙《にょせん》が呼ぶのが聞こえた。
「……泰麒」
肩に手を置かれる。その手の温度と重みがいっそうせつなかった。
「ぼくはキリンじゃないかもしれない」
「そんなことはありません」
柔らかな手が抱き寄せてくる。
「キリンだったら、できそこないのキリンなんだ」
「そんなことはありませんよ、泰麒」
「きっとそうなんだ」
泰麒は女仙《にょせん》にしがみついた。
「ごめんなさい……」
──できそこないで。
愛情をもらうばかりで。
なにひとつ、期待に応《こた》えられないで。