景麒は泰麒の手を軽く叩《たた》いて手を放すと、部屋の中央でわずかに顔を上向けて目を閉じた。なにが起こるのだろうと、首をかしげる間もなくそれは始まった。
不思議《ふしぎ》な映像でも見ているようだった。景麒の姿がゆらいで、溶《と》けた。それはいつかなにかで見たガラスや金属が溶ける光景によく似ている。溶けたかたまりが鮮《あざ》やかな金色を示して、あちこちが引かれたように伸びる。伸びたそれが、ちょうど服でも裏返すように内側から反転して、声をあげる間もないうちに一頭の獣が姿を現した。
「……あ」
ほんのわずかの時間でしかなかった。獣の身体《からだ》にかかった着物が音を立てて床に落ちる。獣がわずかに上げた首を下ろして、泰麒を振りかえった。
紫の瞳《ひとみ》は変わらない。金の髪の──鬣《たてがみ》の色も変わらない。首はけっして長くなかった。馬よりもきゃしゃな印象で、鹿《しか》に似ている。暖かな黄色の身体に模様《もよう》はあったが、それは背だけで、それも模様というより角度によって色を変える体毛が複雑に入り混じっている印象を受けた。
「……麒麟《きりん》」
それは少しも「キリン」に──ジラフに似たところがない。別の生き物なのだとわかる。顔は馬ほど長くなく、鹿に似ている。額《ひたい》に枝分かれした角《つの》があったので、いっそう、そういった印象を受けた。ただしそれは鹿よりも短く、一本しかない。白というより金味のかかった真珠色で、夕陽を浴びて薄紅の光沢《こうたく》を見せている。
しなやかに曲がった首にかかった金の鬣《たてがみ》は、景麒の髪が膝《ひざ》裏にとどくほど長かったことを思えば、うんと短くなっている。そのぶん細くもなったのか、あるかなしかの風に吹かれて揺れるさまは、金の炎《ほのお》でも燃えているようだった。
馬のような蹄《ひづめ》、尾は長くて鹿とは異なる。つけねが細くて馬のそれともちがうが、牛のそれよりも長毛が豊かで、ちょうど馬と牛の間のように見えた。
「……景台輔。これが……麒麟なんですか」
「そうです」
期待していなかったが、まぎれもなく景麒の声で返答があった。
「もっとちがう生き物だと思っていました」
「そうですか?」
そばに寄ってみると、大きな生き物だった。きゃしゃな印象があるが、馬よりもひとまわり小さいくらいだろうか。つややかな毛並みに触れてみたい気がしたが、景麒だと思うとそれも躊躇《ためら》われた。
「……こんなにきれいな生き物だとは思っていませんでした」
呆然《ぼうぜん》と立っていると、景麒のほうから首を下げて鼻先を近づけてくる。
「お気に召したか?」
「はい」
自分でも頬《ほお》が紅潮しているのがわかる。
「ぼくも、こんなふうなんでしょうか?」
「黒麒麟ですから、色はちがいましょうが」
「そう……ですね」
こんな獣になるのは、どんな気分がするのだろう。
「やっぱり前脚は手のような感じがしますか?」
「いえ。前脚は前脚です。転変《てんぺん》すると、どこかが切り替わってしまうようで」
「角もしっぽも?」
「尾はあまり意識しませんが。角《つの》はつけねに火がともったような感じがします。それだけ気が集まっているんでしょう。──そうですね、転変《てんぺん》するときには額に気を集めているような感じはします」
泰麒はちょっと景麒のまねをして目を閉じ、額に意識を集中してみる。あいにくなにも起こらなかった。泰麒は息を吐く。
「……急にできるようになったりはしませんね」
「急がれることはない」
「はい。──きっとこのお姿だと、足も速くていらっしゃるんでしょうね」
「ええ。それに麒麟《きりん》は黄海《こうかい》の中でも宙を駆《か》けます。風に乗ると、どんな鳥よりも速い。その気になれば、この世をひとめぐりすることもできます」
「……蓬莱《ほうらい》へも行けるんでしょうか? ずっと東の果てにあると聞いたのですけど」
「行けます。それをお望みなら」
泰麒は目をしばたたいた。
こんなにきれいな獣になって、世界中の空を駆けるのはどんなに気持ちがいいだろう。しかも、転変することを覚えさえすれば、本当に寂しくてたまらないときに、そっと家をのぞいてくることだってできるのだ。
「泰麒さえお嫌《いや》でなければ、明日は背に乗せてさしあげましょう」
「本当ですか?」
「ええ。──さあ、先に宮へお戻りなさい。玉葉さまがお待ちでしょう。わたしもすぐにまいります」
「はい」
泰麒は深く頭を下げる。
「景台輔《けいたいほ》、ありがとうございました」