蓉可《ようか》は針を持つ手を休ませる。泰麒《たいき》は蓬山《ほうざん》に来ていくらか大きくなった。着物も仕立て直すか、裾《すそ》や袖《そで》を出すかしなくてはならない。
「なんとか景台輔《けいたいほ》と馴染《なじ》まれたようで、よかったこと」
一緒に針を動かしていた女仙《にょせん》も笑う。蓉可もまた笑みを返した。
景麒《けいき》が麒麟《きりん》になって見せてくれたのだといって、宮へ飛び込んできたときの泰麒の顔が忘れられない。翌日には背に乗せてもらえるのだと、すっかり興奮して夜半まで眠らず、翌日風に髪を乱して帰ってきたあとは、さらに興奮して牀榻《しょうとう》に入れるのが大変だった。
「玄君《げんくん》のなさることにまちがいはないってことだね」
女仙《にょせん》のひとりが言って、くつくつと笑う。
「近頃、景台輔が泰麒のまねをして気をつかってくださる。珍《めずら》しいやら、おかしいやら」
「本当に。──仏頂面《ぶっちょうづら》はあいかわらずだけれど」
景麒は蓬山にいる時間が長かった。そのぶん女仙は遠慮がない。
「こればっかりは薹《とう》がたっておられるからしかたがない」
「ちがいない」
軽い笑いが広場に起こる。
そこへ小道をたどる軽い足音が飛びこんできた。
「お帰りなさいまし」
「ただいま」
駆《か》けてきた泰麒は伸びた髪をもつれさせて、それでも白い顔を輝かせている。両脇に二頭の妖《あやかし》を従えていた。一方は汕子《さんし》、もう一方は班渠《はんきょ》といって、景麒の使令《しれい》である妖魔《ようま》である。
「今日はどちらまで?」
「華岳《かがく》に連れていっていただいたんです。変わった鳥がたくさんいたよ」
その笑顔を見て、蓉可も笑みを禁じえない。泰麒はすっかり景麒になついた様子だが、女仙の誰もが景麒になつく子供がいようとは想像だにしなかった。
「それはよろうしゅうございました」
「明日は黄海《こうかい》へ連れていってくださるって。折伏《しゃくぶく》を見せてくださる約束なんです」
「まあ」
蓉可が言葉をとぎらせると、班渠《はんきょ》が笑う。
「心配はいらない。我々がついております」
「ああ……。そうですね」
景麒の使令《しれい》がついているから、心配はない。うなずきながらも、蓉可はどこかに不安を覚える。過去、黄海で命を落とした麒麟《きりん》がいなかったわけではけっしてない。妖魔《ようま》は人も麒麟もへだたりなく襲うのだ。
「……さ、お水を浴びていらっしゃいまし。夕餉《ゆうげ》にいたしましょう」
「はぁい」
うなずいて、泰麒は汕子と班渠を振りかえる。
「行こう」
二頭の妖を従えて駆《か》けていく泰麒を見送り、蓉可は縫い物を置いて立ちあがった。
「どうした」
蓉可が紫蓮宮《しれんきゅう》に行くと、景麒はちょうど紫蓮洞《しれんどう》の泉から上がってきたところだった。この洞に湧《わ》いた水が一段下って、宮の前にある蓮池《はすいけ》に流れこんでいる。
「泰麒を黄海にお連れになるとか」
「それか」
そっけなく言って、景麒は水を含んだ髪をかきあげる。
「大事はなかろう。泰麒の御身は重々使令に守らせる」
「ですが」
景麒は苦笑した。
「女仙《にょせん》は泰麒に甘いな」
「泰麒はお年こそ十ですが、麒麟としては幼くていらっしゃるのです」
「そうも言ってはおられまい」
景麒は宮の入り口にもたれて蓮池を見下ろす。
「夏至《げし》までもう半月ない」
蓉可は頭を垂《た》れた。
「先に令坤門《れいこんもん》を見てきたが、すでに集まったものは五十騎を越える様子」
「そんなに?」
景麒はうなずく。
「戴《たい》と令坤門《れいこんもん》は正反対の方角ゆえ、数騎もあるまいと──ひょっとしたらまだ昇山《しょうざん》の者はないかもしれぬと思ったが、どうやら麒麟旗《きりんき》があがるのを待って四門を巡《めぐ》っていた者が相当数いるらしいな」
麒麟旗があがるやいなや、もっとも近い安闔日《あんこうじつ》に四門を越えられるよう、金剛山《こんごうざん》の周囲を巡る者たちがいる。並の馬に騎乗していては安闔日ごとに四門へたどりつくことは、とうていできない。夏至《げし》からいくらも時をおかずに甫渡宮《ほときゅう》まで昇ってくるだろう。
「なんとか夏至までに使令《しれい》を持たせてさしあげたい」
我こそはと己《おのれ》に頼むところあって四門を巡っている連中だから、そのぶん気も荒い。せめてものの道理をわかっていれば心配することもないのだが、そういう連中はえてして道理を知らぬゆえに思い上がっていることが多いから困りものである。
景麒は言い添えた。
「わたしもそうそう国を空《あ》けられない。王の登極から間がないゆえ、まだまだ慶《けい》は安寧《あんねい》にほどとおい」
「……景台輔こそ、泰麒にはずいぶんお優《やさ》しくていらっしゃるのですね」
蓉可が笑い含みに言うと、景麒は顔をしかめた。
「そうしないとまた、いじめたと責められるからな」
「さようでしたかしら」
笑ってから蓉可は一礼する。
「くれぐれもよろしくお願い申しあげます」
「お怪我《けが》などさせまいよ。会う女仙《にょせん》ごとに小言をいわれてはたまらない」
「そのお言葉、しかと覚えておきます」